Moher&Daugthter:フロリダ・プロジェクト&レディ・バード

 

 高田馬場の早稲田松竹に映画を観に行った。

 「フロリダ・プロジェクト」と「レディ・バード」の2本立て。

 この映画館はいつもテーマを設けて常に2本立てで上映している。

 今回は「Moher&Daugthter 大切な時間を過ごしたあの場所」というテーマだ。

  フロリダ・プロジェクトは息子のおススメ作品の一つ。

 最近の新しい映画や小説や漫画の情報は息子頼みだ。

 

 舞台はディズニーワールド付近の安モーテル地域。

 真っ青な空のもと、観光客をターゲットに、極彩色のフェイク感たっぷりのモーテルやギフトショップや飲食店が立ち並ぶ。

 そのモーテルの一つはシングルマザーらの住処になっていて、主人公の母娘もそこでひと夏を暮らしている。

 

 6歳の娘のワルガキぶり、その母親のBitchぶりがすごいパンチ力だ。

 

 見た目30出たとこのこのかあちゃんは、実はかあちゃんじゃなくて、15歳で妊娠・出産しちゃった娘の子を引き取ったのだという。

 つまりこの母娘は、ホントはばあちゃんと孫娘というわけだ。

 

 いわゆる底辺に生きる人たちを子供の目線から描いており、ちょっとファンタジックでコミカルな世界が広がる。

 その中でリアル感を発散しているのがモーテルの管理人のおじさん。

 このろくでもない母娘に手を焼きながらも、観ていて泣けるほど優しく暖かくてシブくてカッコいい。思いっきり感情移入してしまった。

 

 最後の方になんと本物のディズニーワールドが現れるのだが、このラストシーンはめちゃくちゃ斬新だ。

 

 

 「レディ・バード」はカリフォルニア州サクラメントの高校からニューヨークの大学に入学する女の子の青春&ファミリードラマ。

 

 サクラメントというのは行ったことないけど、この映画で見る限り、田舎町といえどもそこそこ豊かで、余計な夢や野望など抱かず、適当に周りと合わせていればぬくぬく暮らせるような街。

 日本でいえば、昔の名古屋みたいなところかなぁ。

 

 主人公の自称レディ・バードはそこから飛び立ちたいと願って母親と衝突するのだけど、これはこの子どもと母親・父親の両方の気持ちになれて面白かった。

 齢を取ると、こうした青春&ファミリードラマは二重に楽しめる。

 

 

 早稲田松竹は昔ながらの面影を残す、好きな映画館の一つだ。

 古い体質なのかも知れないけど、映画は基本的に家では見ないので、こうした街の名画座があるのはとてもありがたいし、がんばってほしい。

 


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お化けは子どもの大事な友だち

 

 世田谷・羽根木公園の雑居松まつりへ。

 息子がチビの頃、1年ほどここのプレーパークの自主ようちえんsでお世話になっていました。

 

 雑居まつりは毎年この時期に行われており、世田谷区の社会福祉団体やボランティア団体が出店するフリーマーケット。

 衣料とか生活雑貨がめっちゃ安く売られています。

 昔は子供服目当てで毎年通っており、しばらく足が遠のいていましたが、ここ4~5年また覗きに出かけています。

 けど最近、この開催日は毎年雨が降るか、ピーカンでとんでもなく暑くなるか、どっちかなんだよね。

 今年も後者でバテました。

 

 公園の中央にはステージも設けられ、バンドの演奏をはじめ(今日は久しぶりにS&Gの「明日にかける橋」を聴いた)、いろいろな催しが行われていますが、その横でこれも恒例の、プレーパークの子どもたちが創るマスコットがデデン!と登場。

 

 今年はろくろっ首と妖怪電車(バスかな?)。

 一足早いハロウィンか?

 妖怪ブームがあった記憶はないけど、プレーパークの子どもたちにとってのマイブームだったのでしょう。

 お化けはいつでも子どもの大事な友だちなのです。

 


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肉じゃがは幻想のおふくろの味

 お読みの女性の方、ダンナやカレ氏に「肉じゃが作ってちゃぶだい」と頼まれたことがありますか?

 

 僕はおふくろもカミさんも肉じゃがが嫌いなので家で食べたことはほとんどありません。(おふくろの場合は子供の頃、作ったことがあるかもしれないけど思い出せない)

 

 カミさんの場合は自信を持って「一度もない」と言い切れます。

 聞いたら「ジャガイモが半分煮崩れて汁や他の具材と混ざっているのが嫌」なのだそうです。

 なかなか神経が細やかな女性です。

 いずれにしても、自分が嫌いなものだから作るはずがない。

 

 と言って別に文句を言っているわけではありません。

 僕もカレーのジャガイモやポテサラやフライドポテト、コロッケその他、ジャガイモ料理は大好きですが「おれは肉じゃがが食べた~い!と叫んだことはありません。

 

 サトイモの煮っ転がしは好きだけど、あの甘い醤油の汁はじゃがいもには合わないと思っています。

 

 思うに肉じゃがは日本が近代化して間もない貧しい時代、そして庶民も月に一度くらいは肉を食べられるようになった時代――明治とか大正に庶民の食卓で発展したおかずだろうと思われます。

 

 一家のお母ちゃんがかまどの前に立ち、家族みんなで食べるには少なすぎる肉をどうやって食べようと思案した挙句、そうだ、あのすき焼きのような(当時は肉を使ったごちそうといえばすき焼きをおいて右に出る料理はなかった)味のものにしよう、安い野菜と合わせて煮るんだ。そうだジャガイモがいい。ジャガイモを主役にすればお腹もいっぱいになるし、それにあまりものの玉ねぎやニンジンを入れて煮込めば・・・はい、出来上がり!

 という感じでお母ちゃんが工夫を凝らして生まれた料理が肉じゃがです。

 これがデン!と鉢に盛られて食卓の真ん中に置かれる。

 ほかほかと立つ湯気と匂いが食欲をそそる。

 「いただきまーす1」と10人もいるような大家族が一斉に競いあって食べる。

 「こらノブオ!肉ばっか選って食べるじゃない!」と、母ちゃんの優しく暖かい怒声が飛ぶ。

 他におかずと言えば漬物くらいしかないけど肉は食えるし、ジャガイモでお腹はいっぱいになるし、今夜の家族は幸せだ。

 

 そんな時代が長く続き、肉じゃがは不動の「おふくろの味」となったわけです。

 

 というわけですが、男性の方はカミさんやカノジョに「肉じゃが作ってちゃぶだい」と頼んだことがありますか?

 

 いまだに肉じゃがは「おふくろの味」の定冠詞を被っていますが、豊かになっちゃったこの時代、この料理をそんなに好きな人は大勢いるのだろうか?

 街の中の定食屋に入っても「肉じゃが定食」なんてお目にかかったことないもんなぁ。

 そもそももはやメインディッシュとなり得ない。食べるとしても副菜というか小鉢でつまむ程度。

 

 けれども副菜だろうが小鉢だろうが、ばあちゃんもおふくろもカミさんも誰も作らなくなっても、古き貧しき日本の郷愁を感じさせる肉じゃがは不滅なのだと思います。

 これから先は明治・大正・昭和のストーリーを背負ったファンタジー料理としてその命脈を保っていくでしょう。

 

 ・・・と思っていたけど、香取信吾がコマーシャルやってるファミマの「お母さん食堂」のメニューにはポテトサラダはあっても肉じゃがは入ってないぞ! 危うし肉じゃが。この続きはまた明日。

 


ちびまる子ちゃんとサザエさんはいつまで続くのか?

 

 西城秀樹さんの葬儀の取材をしたのは5月のことでしたが、まるでその後を追うように今回、さくらももこさんが亡くなってしまいました。

 

 「ちびまる子ちゃん」は世代が近くて自分の子供時代の雰囲気を楽しめるので、日曜の夜、家でゴロゴロしていると時々見ています。

 

 学校のクラスメイトら子供はもちろん、大人も面白いキャラクターがたくさん登場して、いろんな人がいるから世の中楽しいんだということを僕たちに伝えてくれていると思います。

 

 原作者が亡くなったからと言ってアニメの番組がなくなるわけではありませんが、どうも2~3年前から「ちびまる子ちゃん」それに続く「サザエさん」の視聴率の著しい低下が取り沙汰されているようです。

 

 僕はかなり昔から「サザエさん」の放送が終わる時が、日本が本当に変わる時だと言っていました。

 それに対してフジテレビは「サザエさんは永遠不滅です」と豪語していました。

 

 しかし雲行きが怪しくなってきた。

 そもそも当のフジテレビの長期的低落傾向にあり、これはもはや万人の知るところとなっています。

 もしかしたら“その時”が少しずつ近づいているのかもしれません。

 

 ふだんは仕事や接待でろくに家にいないお父さんも日曜の夜だけは家にいる。家族そろって楽しい夕食。家族のだんらん。

 「ちびまる子ちゃん」と「サザエさん」は、そんなに日本の家族の幸せの時間をさらにあたためる暖炉の役割を果たしていたのだと思います。

 しかし、そうしたお茶の間の習慣もとっくの昔に過去の遺物と化してしまいました。

 

 そろそろお役御免なのか? 

 長年培われた習慣と、高齢者がテレビを求めていることを考えると、まだまだいける、そう簡単に消えてなくなるとは思えませんが・・・

 でも、平成最後の夏のさくらさんの訃報は、何か日本人の生活が本質的に変わっていることを暗示しているようにも思えます。

 


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旅する仏壇、またの名をお弁当仏壇

 

 エンディング産業展で、遺品整理クリーンサービスとともに特に気に入ったのが「旅する仏壇」です。

 何と言ってもネーミングが最高で、出展ブースの名前が並んでいるだ

けの資料を見たときは、一体なんだろう?と思ったが、現物を見て納得

。おお、こういうものだったのか。

 

 この仏壇というか、ご供養セットはお弁当箱みたいにコンパクトに収

まるようになっていて、どっかへ行くときにバッグに入れて携帯できる

。いわば置き電から携帯電話へ、パソコンからスマホへ、の発想です。

 

 たとえば死んだ親父と温泉旅行に行きたい、おふくろが好きだった花

畑を見せてやりたい、あるいはワンコの散歩コースをまた歩きたいと思

ったら、この旅する仏壇を持って行ってチーンとやれば、思い出に浸れ

るわけです。

 人間の脳はうまいことできているので、たったそれだけでも失った家族に対する回想の深度は段ちがいになるでしょう。

 

 作ったのは若い仏壇職人や木工工芸士のチーム。こうした人たちは結

構すごい技術を持っているのだけど、産業の変化でそれを発揮できる機

会がめっきり減っています。

 せっかく手につけた職を生かすには自分たちで企画を作るしかない・

・と生まれたのが「旅する仏壇」というわけ。

 

 「あの世にいるお父さん・お母さんと旅に出よう」なんてキャッチフ

レーズが似合うかもね。

 


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西城秀樹さんのお葬式で感じたこと:女の涙は子どもと夢の人のために

 

 先日の西城秀樹さんのお葬式の記事を書くのに、現場の録音データを聞きながら、昨日1日ジタバタしていました。

 これだとちょっと思い入れが強すぎてダメだし食らうかも、と思いつつ原稿提出。

 

 それにしてもいろんな意味で感動的な体験でした。

 

 喪服のマダムらがYMCAを踊ったり、おいおい泣いたり、「ヒデキー」と叫んでいるのを思い出すと、身体の底でずっと眠っていた女の子が40年ぶりくらいに起き出して、マダムの着ぐるみをかぶってあそこに集まっていたんじゃないか。そんな幻想にとりつかれます。

 

 仲間もいっぱいいるし、あそこなら何の遠慮もなく泣けるもんね。

 

 ファンは圧倒的に女性が多いんだけど、中には男性もチラホラいて、男同士というのはほとんど見当たらず、どうやら夫婦で来ているらしい。

 それが奥さんは喪服、もしくはそれに準じるような服装をしているのに、ダンナの方はほぼ普段着というチグハグなカップルがほとんど。

 

 取材したわけでなく、あくまでこれは僕の想像だけど、普段は従順な奥さんがこの日ばかりは「わたしは絶対に行く!」と主張し、その迫力にタジタジとなったダンナが「しゃーない、じゃあオレもついていくわ、東京見物・青山見物もしたいし・・・」ということで一緒に来たのではないか。

 

 奥さんとしてはちょっとジャマだけど、交通費もメシ代も出してくれるというから、まぁいいや、と妥協した・・・とか、そんなバックストーリーがあったのではないだろうかと思います。

 

 でもダンナづれで、ちゃんと女の子に戻ってヒデキに声を掛けられたのかなぁ。

 

 そういえばネットに上っていた映像で、テレビのインタビューを受けたマダムが「夫が死んでもこんなに泣きません」と泣いていました。

 それでいいと思います。

 

 死んだからって、あんまり泣かれても困っちゃうしね。

 女の涙は子どもと夢の人のために大事に使ってください。

 ダンナはそのおこぼれを頂ければ十分です。

 


スーパーマーケット偏愛シンドローム

 

 時々、自分はスーパーフェチなのではないかと思うことがあります。

 スーパーマーケットが好き。というか、その空気の中にドブンと丸ごと漬かりたいという欲求に時々襲われるのです。

 

 今日も午前中仕事して、昼に出かけて5ヶ月ぶりに会った友だちと昼飯を食って、帰ってきて疲れて昼寝していたら早や夕暮れ時。

 ベランダの洗濯物を取り込んで、ちょっと涼しくなった外の風に触れたら、急にその欲求に襲われました。

 

 というわけで冷蔵庫の在庫を確認し、リュックを担いで近所のスーパーマーケットへ。

 近所と言っても3番目くらいに近い所で、5分ほど自転車に乗って出掛けます。

 この5分間、ちょっと涼しくなった空気と、ちょっと金色っぽい西日の光を全身に感じられれるのがいい。

 

 着いてみるとスーパーの中は赤ん坊からお年寄りまでいろんな人たちが、今晩は何を食べようか、明日の分も買っておこうか、予算はいくらだと、あれこれ考えながら、あるいは話し合いつつ買い物に興じています。

 

 普段は昼間に行くことが多いので空いていますが、今日は時刻も時刻で、ちょっと混雑していてレジにもカゴをぶら下がたり、カートを押す人たちの列が。

 この混み具体がまたなかなかいい味出しててて、胸をワクワクさせます。

 

 初夏の良く晴れた日曜日の夕方のスーパーです。

 家族そろってきている人たちもたくさんいます。

 

 こっちの子どもは何がうれしいのか声を上げてはしゃぎ回り、そっちの子どもは試食のハシゴで走り回り、あっちの子どもはなぜだか怒って大泣きしている。

 

 怒り出すお母さん、困った顔したお父さん、すましてマイペースでのんびり品定めをするお年寄り、値段を見て長考する人もいれば、あせあせと小走りでかごの中に品物を放り込んでいく人もいます。

 

 働いているスタッフもお店にいる時間はスーパーの人だけど、勤務時間以外はもちろん自分の生活を持っていて、家族のこと、子供のこと、お金のこと、自分がかつて持っていて諦めきれない夢のこと・・・いろんなことで悩んだり、失望したり、希望を持ち直したりしています。

 作業の合間やお客とのちょっとしたやりとりの中で、そうしたものが垣間見えたりするのも面白い。

 当たり前だけど、彼ら・彼女らはけっして働くだけの人ではなく、今日も一生懸命、この世の中の不条理と闘いながら(でもあんまり頑張ると疲れちゃうので時々は空気を抜きながら)生きている、すてきな人間です。

 

 なんといえばいいのか、たまにそんなことを考えつつスーパーをうろつき回っていると、とても人間が愛おしくなって、からだの芯があったまってきて、脳みそが妄想で膨れ上がって、お店ごと抱きしめたくなるのです。

 

 というわけで買ったレタス、トマトやキャベツ、タマネギ、ジャガイモ、サカナ、牛乳、ヨーグルト、パン、ドレッシング、ぶどうなどをリュックにぶち込んで家路に向かうと夕焼けがきれいでした。

 いつかスーパーマーケットを舞台にした面白くて泣ける話を書きたいなぁ。

 


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子供の自立について

 

 今日は息子の誕生日だった。
 当初の予定ではとっくの昔に自立・自活しているはずだったが、現実はそうなってない。
 親がアホなせいかも知れない。
 アホでもしゃーないなと思ってマッシモ・タヴィオでささやかなお祝いをやった。

 子供の自立を望んでいながら、かたやこっちが子離れしていない。
 じつは最近の映画や本やコンテンツもろもろにに関する情報の7~8割は息子に頼っている。
 彼が推薦するものはだいたい外れがなくて信頼できる。

 その代わりにこっちはレトロ情報(60年代~90年代カルチャー)を提供する。
 物々交換みたいだ。
 でも最近はやたら勉強していて、そのあたりのことも親よりよく知っていたりする。

 そう考えていくと、むしろ自分の方が子供に頼って生きている部分がある。
 それどころかずっと子供の可愛さ・面白さに支えられて生きてきた。
 そういう意味ではもう十分に親孝行は果たされている。
 
 さらに考えてくと自分は自立していると言えるのか、とも思う。
 何とかここまでもっているのは、若い頃から友達におだて上げられたり、仲間に励まされたり、女の子たちに甘えさせてもらったりしたおかげである。
 もちろんカミさんにも甘えっぱなしである。

 昔は自分の食い扶持は自分で稼ぐ――そうなれば自立したと言った。
 今はどうか?
 金さえ稼いでりゃ自立していると言えるのか?
 ネットの株取引きで稼いでりゃ、他の人間と接触しなくても、他に何やってても、誰も文句が言えないのか?。
 人の助けを必要としなければ、それが自立なのか?

 基本はそうなんだろうけど、そう単純なのだろうか?
 他人の支えや助けを拒み無視して生きようとするのは立派なことなのか?

 少しでも早く自立して欲しいと願う気持ちに変わりはないが、そうなるまでのプロセスでいろんな経験を積んで成長してくれればいいなと思う。


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マイピュアレディと妄想力に基づく男の深い愛

 

 うちのカミさんは髪を切るとき、カメが店長をやっている赤坂の24時間営業(これはぜんぶホントです)の「PINCH」という美容院に行っています。

 

 店内ではカメの店長が悠々とウロウロしながら野菜を食べているそうです。

 

 で、昨日そこに行ってバスっとショートカットにしてきました。

 身内なので褒め難いけど、なかなかイイのです。

 

 それで思わず「マイピュアレディの小林麻美みたいだ」と言ったら、「はぁ?」と返されてしまった。

 聞くと、小林麻美は長い髪のイメージしかないとか。

 デビュー当時のハミガキのCMに出演していた頃とか、「初恋のメロディ」を歌っていた頃のことだろうか。

 

 3つしか齢が違わないので、一応、同時代人なのだが、時々、話がズレるのです。

 それとも、僕が小林麻美が好きだったというのが気に喰わなかったのか・・・。

 いずれにしても、ほめ言葉のつもりだったが、あまりお気に召さなかったようです。

 表現手段を間違えましたた。

 

 そういえば半年くらい前だったか、雑誌の表紙で久しぶりに小林麻美さんを見ました。

 さすがにもう貫禄がついているんだけど、男の妄想力は偉大なので、脳の中でちゃんとそこに過去の残像をピタッと合わせられる。

 

 つまり現実を受け入れつつ、過去の記憶の中の面影をしっかり楽しめちゃうのです。

 だから昔ぞっこんだったアイドルを今も十分に愛でることができる。

 好きな女に対する男の愛はとっても深いのです。

 

 それに対して女の場合はどうなのか?

 女がおじさんになってしまった昔のアイドルに肩入れするのは、そのアイドルを愛しているというよりも、それを媒介として、脳内であの頃の若い自分にもどれるからではないかと思います。

 だからどっちかというと自己愛に近いものという気がします。

 

 やっぱりメインは子供の方にとっておくんでしょうね。

 そうしてください。

 子供より大事なものはこの世にありません。

 


お母さんは夕暮れの交差点で踊った

 

昨日のこと。

日が沈み、空が薄く群青色になり始めていた。

僕は永福町の駅を通り抜け、井の頭通りを西から東へ自転車で走っていた。

通りの向こう側に行きたいので、信号のある交差点で停まる。

 

すると思わぬ光景に出会った。

 

向こう側に女性がふたりいる。

ひとりは小学5年生~6年生くらいの女の子。

もう一人はそのお母さんと思しき女性。

信号待ちの間、ふたりは何やら仲良くふざけ合っている。

 

お母さんはちょっとお道化て体をスイングさせながら、リズミカルに脚をサイドに蹴り出して見せる。

それを見て娘はキャッキャと嬉しそうに身をくねらせている。

 

どうやら彼女はクラシックバレエの素養があるようだ。

表現のために鍛え上げた筋肉はさりげにすごく、通りを挟んだこちら側からでも、体の輪郭がくっきりと浮かび上がって見える。

 

僕はぼんやり見とれながら、あの二人は本当に母娘か? 

あるいは叔母と姪か?

さすがに姉妹ではないだろう。

齢の離れた友達と言うのもあり得るかな・・・など、いろいろ考えていたが、そのうち信号が変わり、ぼくは北から南へ、二人連れはこれまた楽しそうに小躍りしながら南から北へ渡った。

 

すれ違って僕は、お母さんらしき女性はダンサーなのかも知れないと考えた。

でも暮らし向きは良くない。

もしかしたら彼女の夫はろくでもない男で、愛想をつかして離婚して娘と二人暮らしになってしまったのかも知れない。

 

お金がなくて娘を育てるためにスーパーマーケットンのレジ打ちやら、トイレ掃除やら、介護ヘルパーやら、宅配便の配達やら、いろんな仕事を掛け持ちしなくてはならないのかも知れない。

 

けれどそれでも彼女は踊るのをやめないだろう。

自分のために、娘のためにも。

 

ほんの一時かも知れないけど、彼女らは生きていることをとても楽しんでいて、僕に素敵な印象を与えてくれた。

 


かわいい叔母さん

 

 父も母も昭和ヒトケタ生まれ。貧乏人の子沢山でそれぞれ8人兄弟だ。

 ぼくが生まれる前に死んでしまった人を除き、そのきょうだい、および、その伴侶の全部はしっかり顔や言動を憶えている。

 僕が子供の頃は行き来が盛んだったので、みんなインプットしている。

 

 しかし、9年前に父が亡くなったのをきっかけに、毎年バタバタと後を追うように亡くなり、大半がいなくなった。

 今年もまたひとり、先日、ヨリコ叔母さんが亡くなったと聞いた。

 

 母方は女系家族で8人のうち、7番目までが女で末っ子だけが男。

 ヨリコ叔母さんは7番目。つまり7姉妹のいちばん下の妹だ。

 

 幼稚園の時だったと思うが、結婚式に出た記憶がある。

 きれいなお嫁さんで、チビだったぼくを可愛がってくれた。

 そのチビの目から見ても、なんだかとてもかわいい人だった。

 

 6人も姉がいて、4番目の母(母は双子の妹)とさえ12歳違う。

 いちばん上のお姉さんとは16歳以上違うはずだ。

 なのでほとんどは姉というよりチーママみたいなものだ。

 母もよく子守をしたというし、日替わりでみんなが面倒を見てくれていたようだ。

 

 母の家はお父さん(僕の母方の祖父)が早く亡くなったので、女が協力して貧乏暮らしからぬけ出そうとがんばってきた。

 でもヨリコ叔母さんは小さかったので、そうした苦労が身に沁みず、物心ついたのは、お母さんやお姉さんたちのがんばりのおかげで暮らし向きも上がってきた頃だった。

 そうした中で一家のアイドルとして可愛がられて育った。

 

 そうした成育歴はくっきり刻まれ、そのせいで彼女は、ほかの姉妹らの下町の母ちゃん風の雰囲気とは違う、お嬢さん風の雰囲気を持っていた。

 だから、おとなになってもどことなくかわいいし、ちょっと天然も入っていた。

 

 最後に会ったのは父の葬儀の時。

 さすがに外見はそろそろばあちゃんっぽくなっていたが、中身はほとんど変わっておらず、ぼくをつかまえて

 「せいちゃん、大きくなったねー」と言った。

 

 50間近の男に向かって大きくなったねーはないもんだけど、そう笑顔で屈託なく声を掛けられるとすごく和んでしまった。

 その時の会話が最後の印象として残ることになった。

 

 叔母とはいえ、中学生以降はめったに会うこともなかったので、彼女がどんな人生を送っていたのはわからない。

 

 もちろん少しは苦労もあったと思うけど、べつだんお金持ちではないにせよ旦那さんは真面目で優しくユーモアもある人だったし、特に悪い話も聞かなかった。

 嬉しそうに小さい孫娘の面倒を見ていたのも印象的だった。

 

 たぶん美化しているし、これは僕の勝手な想像であり願いだけど、おそらくそれなりに幸せに過ごしてきたのだろう。

 

 不幸な目に遭ったり、理不尽な苦労を強いられたり、他人にあくどく利用されたり、自分の欲に振り回されたり・・・

 人生の中のそんな巡りあわせで、人間は簡単に歪んでしまう。

 

 でも、できるだけそうしたものに心を損なわれないで、ヨリコ叔母さんのようにかわいい人にはいくつになっても、ずっと素直にかわいくいてほしいなぁと願ってやまない。

 


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子供の大学受験は「良い親検定」

 

私立大学の受験も終盤を迎えたようです。

今日もうちの近くのM大の正門前には、夕方、試験を終えて出てくるわが子を待つ親たちがたむろしていました。

 

子供のことを心配している。

なのだろうけど、じつは自分の心配。

子供の受験を自分の検定試験のように考えているはようで。

「親として私は合格なのだろうか?」と、気が気でない。

不安な気持ちはわかります。

 

でも、その合否を子供が受ける大学に決めてもらうのか?

子供がM大に合格すれば、自分も親として合格なのか?

それで「上がり」で、子育て卒業というわけか?

 

でも現代子育てすごろくには続編がある。

4年後には今度は就職(就社)がやってくる。

これまた一大イベントで、再び親としての検定試験が行われる。

今度は子供が入社試験を受ける〇〇社に

「私は親として合格でしょうか?」と問いかける。

 

「いやぁ、もちろんです。こんな立派な息子さん(娘さん)を育てたあなた、合格!」

とポン!とハンコを押してもらえば満足なのか?

 

ゾロゾロ門から出てくる受験生たち。

その中からわが子の姿を必死に探し出し、駆け寄る親たち。

 

中には子供に「来てほしくない」とはねつけられたけど、やっぱり来てしまって、

遠目からわが子の姿を追う人もいるようだ。

 

なんだか年々その数が増えている気がします。

よけいなお世話だろうけど、ちょっと考えさせられる風景なのです。

 


「美味しいケーキは年一度」の誓いと、追憶のバタークリームデコレーションケーキ

 

 カミさんと誕生日が10日しか違っていないのです(11日と21日)。

 双方の都合が合わなので、じゃあ真ん中の日の夜は空いているので、そこでやるかということで、昨日の晩は二人合わせてお誕生会。

 と言ってもお寿司を食べて、ワインを飲んで、定番のパステルのプリンケーキを食べただけですが。

 

 パステルの回し者ではないけど、やっぱりここのプリンケーキはおいしい。これと対抗できるのは(べクトルは違うが)、赤坂TOPSのチョコレートケーキだけです。

 

 ケーキはいろいろ食べましたが、この2つの頂点に行き着いてしまったと感じ、ここ数年、たまに贈り物としていただく以外は、他のケーキ屋のケーキにあまり食指が動きません。

 

 以前はクリスマスやら誕生日やらの「ハレの日」に燦然と輝いていたケーキ類ですが、最近はスーパーやコンビニでも手軽に安く、いろんなスイーツが手に入ります。

 それもレベルが激アップして、どれを食べてもかなり美味しいんだよね。

 なので、ケーキに対するスペシャル感がなくなってしまいました。

 

 こうなると逆説的に、僕らが子供の頃に食べた、バタークリームを使ったデコレーションケーキが懐かしくなる。

 デコレーションされてて、「うわぁ、美味しそう!」とハイテンションになるんだけど、あのバタークリームって脂をそのまま食べているみたいで、まずいのなんの。

 三口も食べるとうんざりする。

 でも、お父ちゃんがわざわざ子供のために、と買ってきてくれたので、そう嫌な顔もできず、食っていました。

 涙ぐましい子供の気遣い。

 

 それにしても、当時、舌のまったく肥えていなかった僕でも、あれほどまずいと思ったのだから、 今の子供・若者たちは、あのバタークリームは絶対食べられないだろうなと想像します。

 

 そういえば中学生の時、友達と集まってクリスマスパーティーをやって、あのバタークリームのケーキと、こっちも今思えば激マズの「赤玉ハニーワイン」を飲んで酔っぱらって、翌日まで気持ち悪く、胃がムカムカしていたことまで思い出しました。

 人生初にして最悪の二日酔い。

 

 さて。

 日常的においしいものがいっぱいあるということは幸福である一方で、どうも生活にメリハリがなくなってしまう。

 なので、パステルのプリンケーキと、TOPSのチョコレートケーキは、それぞれ年に1~2度の楽しみと決めています。

 

 久しぶりに一度、昭和のバタークリームのデコケーキ、食べてみたいなぁと思うこともありますが、やっぱりまずいだろうなぁ。

 


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笑って泣ける人生親子漫才

 

 夫婦漫才、兄弟漫才というのは昔からあるけど、最近は親子漫才も人気のようで、シングルファーザーのお父ちゃんと小学生の娘のコンビがネットでちょっとした話題になっています。

 

 「お父ちゃんがお笑い芸人になる夢捨てきれへんから、お母ちゃんが愛想つかして出て行ってしもうたわ」と、娘が可愛くかまして観客大爆笑。

 だけどちょっとホロっと来て、胸に響いて、ヘタな哲学談義などよりよっぽど考えさせられるのです。

 

 プライベートな話をネタにして、自分を笑い飛ばす。人生を笑い飛ばす。

 僕やあなたをはじめ、ちゃちなプライドにとらわれている人たちにとって、これはなかなかできることではありません。

 

 ベテランの漫才師さんたちを見ていると、自分の病気や体がきかなくなったことさえネタにして笑わせてしまう。

 これぞプロフェッショナル。まったく尊敬ものです。

 

 彼ら・彼女らは死ぬことさえも笑い飛ばして、相方のお葬式でも大爆笑の渦にしてしまうかも知れない。

 そして参列者をみんな体の芯から号泣させてしまうかも知れない。

 

  話を親子漫才に戻すと、これから親と子も相互扶助の時代で、ネタも豊富に作れそうだし、どんどん増えるような予感がします。

 今のところ、娘のツッコミ×親父のボケが主流のようですが、娘×母、息子×親父、息子×母、みんなあっていいんじゃないかなぁ。

 

 さらに男同士、女同士の夫婦とか、LGBTの漫才があっても面白い。

 

 そのうちジジババも交えて3世代のトリオ漫才も飛び出すかも。

 

 「老人ホーム入るために漫才やって稼がなあかんのや。

 おまえら協力しい」

 「何言うてんの、じいちゃん。このギャラは今度生まれてくる、あんたのひ孫のミルク代にするんやで」とかね。

 

 とにかく何があっても笑って生きていきたい。

 


●子どもや動物にモテる妻と、そうでない夫、そして人生のミステリーとハッピネスについて

 

うちのカミさんは子供や動物にモテる。

べつに子供や動物が大好きというわけではない。

むしろ子どもに対してはいたってクールだし、ペットを飼ったこともないし、ネズミ類などの動物は大嫌い。

 

だけどなぜだか子どもはよくなつくし、言うことをちゃんと聞く。

 

僕は道でネコに会うたびに対話を試みるが、ほとんど相手にしてくれるネコはいない。

なのに、彼女にはイヌもネコもクンクン、ニャーニャー寄ってくる。

 

なんで?

こういうのは生まれ持っての才能なのか?

(彼女はその才能を活かして、小児鍼という、子供を診る鍼をやっている)

 

子供や動物を愛してやまないという人ならわかるが、どうも納得できない。

なんだか不条理だ。

長らく僕にとって人生のミステリーとして濃い影を落としている。

 

なにかコツとか、ノウハウとか、心がけとかあるのかと聞くと、

「そんなもの、あるわけなでしょ」と一蹴される。

思えばこの20数年、そうしたやりとりを繰り返して暮らしてきた。

 

長く生きて、いろいろ経験を積めば、その謎が解けていくのではないか。

なるほど、そういうことだったのかと、いつかすべての霧が晴れる日が訪れるのではないかと漠然と思っていたが、どうもそういうものではないらしい。

 

わからないやつには一生わからない。

バカは死ななきゃ治らない。

これはそういう類の事象だ。

 

ネコにすり寄られようが、無視されようが、人生の大きな損失になるわけじゃないのだが、やっぱりちょっと悔しい。

 

でも彼女が子供やイヌ・ネコにモテた話を聞いたり、目の当たりにするのは悪くない気分である。

 

人間も世の中も理路整然とはしていない。

ロジックにとづいて動いている物事はむしろ少なく、大事なことは不条理だから面白かったりもする。

すべてのミステリーが解決して、空には一片の曇りもなく、影もなく霧も出ない人生はかなりつまらなそうだ。

 

いずれにしても、そういう才能に恵まれなかったぼくも、しゃーないから少しは努力しようという気になる。

 

そしてたまにネコとのコミュニケーションに成功したりすると、得も言われぬ幸福感・充実感に包まれるのである。

 


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失われたPTAコラムとライオンの面倒を見るコアラの話

 ちょっと前、息子の小学生時代のPTA仲間だった女性に、僕が書いたコラムが面白くてずっと冷蔵庫に貼っていた、とお褒めの言葉を頂きました。

 でありながら失くしてしまったので、あれ残っていない?と言われて家探ししてみました。

 

 かれこれ10年くらい前のもので、彼女が読んでいるということは、PTAの広報誌に違いない、それならほとんどファイルしてある(なにせ小中で7年間、広報委員をやったので、30冊以上作った)ので見つかるはずだと思ったのですが、どこのページをめくってもそれが見つからない。

 

 いったいどこに何を書いたのだろう?

 しばらくの間、考え続けたが、そうそうヒマでもないので探すのはやめました。

 

 でも、彼女の話を聞いて、なんとなく内容は思い出した。

 「動物占いについて」です。

 

 「動物占い」は生年月日(プラス血液型もあったかな?)で12か13の動物(タイプ)に分かれる。

 ヒョウとか、オオカミとか、ウサギとかあったような気がするが、うちでやってみたら、妻と息子は同じ「ライオン」で、僕は「コアラ」だった。

 

 ライオンタイプの人たちは、やたら外面が良くて、あの人はデキる人とか、一目置かれるような人たちに見られるらしい。

 その反面、家の中とか、内内ではグテグテにだらしなくて、そのギャップがすごく激しいということ。

 

 僕はコアラなので、外でもうちでもマイペースタイプ。

 しかし2頭のライオンと暮しており、その2頭が揃って「きょうも褒められちゃった~、デヘヘ、グテグテ~」となっているので、子守熊よろしくその面倒を見なきゃいけない損な役回りだ~。

 

 といったことを書いたのだと思います。

 どういうふうにまとめたかは憶えてないけど、だいたいこんな内容。

 しかもその暮らしぶりは基本的には10年経っても変っていません。

 チビライオンがでかくなってしまったので、グデグデしていられると、以前にもまして邪魔でしゃーないけど。

 でもまぁ、ライオンたちに助けられているところもあるので、お互いさま、というか、共依存関係かな。

 

 だけどNさん、面白がってわざわざ冷蔵庫に貼ってくれてありがとう。

 また10年経ってもさらに面白いものが書けるよう精進します。

 


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ハーバリウム:ハーブの水族館

 昨日、かみさんが教室に行って作ってきた作品を玄関の飾りに。

 ドライハーブを保存用オイルに漬けたもの。

 ハーブのアクアリウムということで「ハーバリウム」。

 半永久的に保存できるそうです。

 

 外界で生きていた時とは違った命を与えられた植物。

 ただきれいなだけじゃなくて、ミステリアスな雰囲気があってソソられてしまう。なんだかセクシーだ。

 錬金術のような、クローンの培養のような、ちょっと怪しい科学を想起したりもします。

 


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「釣った魚にエサをやらない男」は、じつはその魚に依存して生きている

 

 むかし、ある女友達に「あんたは釣った魚にエサをやらない男」と言われたことがあります。彼女とは恋愛関係になったことはなかったのだが・・・。

 

 この間、男脳・女脳に関する本を読んでいたら、なぜかそのセリフがぷわっと浮かんできました。

 

 大半の男は、連れ合いとして長年一緒に暮らしている女を、だんだん自分の身体の一部として認知するようになるという。

 

 独立した、別の人間として認めているのだけど、同時に頭の中で、自分の手足としたり、目や耳にしたり、ある時は脳の一部としても認知してしまう。

 

 「もう一人の自分」とまではいかないけど、それにやや近い存在――一種のアバターもどきという感覚でしょうか。

 

 そういわれると、確かにそう感じているかなぁ・・・と自分でも思います。

 

 男脳は空間認識能力が高く、その能力を拡張することによって、外部のメカや道具と一体化する感覚――たとえば、車やバイク、あるいはノミやナイフなどが自分の身体の神経とつながっているかのような感覚を持てるとのこと。

 

 さまざまなメカの操縦者や、繊細な技術が必要とされる職人に男が多い所以です。

 ガンダムなどの人間搭乗型ロボットもそれと同じ原理なのでしょう。

 

 この感覚を応用すると、連れ合いも自分の一部にしちゃえるのです。

 

 しかし、そういう男は、もし相手に先立たれると、自分の身体の一部を失ったような感覚にとらわれ、すぐに弱って早晩死んでしまうといいます。

 

 確かにそういう事例はいっぱいあるし、逆の例は極端に少ない。

 女は夫に先立たれても、弱るどころか、逆に元気になるもんね。

 

 「釣った魚にエサをやらない男」も、じつは精神的にはその魚のほうに依存して生きている。

 それにしてもなんであんなこと、言われたのかなぁ・・・。

 


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先祖ストーリー④:父方のじいちゃん:明治・大正のフーテンの寅平

 

 お盆にちなんで先祖の話。

 じいちゃん・ばあちゃんの話です。

 最終回は父方の祖父の巻。

 

●幻のようなじいちゃん像

 

 ちょうど僕が小学校に入学するときに亡くなったおじいちゃんは、ずいぶん僕を可愛がってくれた、と父や母から聞きましたが、あまり憶えていません。

 

 近所の公園に散歩に連れて行ってもらったこととか、縁側でひなたぼっこをしながらザクロやイチジクの樹を見ていたことなど、かすかな記憶はあるものの、それが現実のことだったのか夢のことだったのか、よくわからない程度です。

 

 そんな幻のような像しか残っていないのだけど、4人の祖父母の中で一番興味を覚えるのがこの人なのです。

 

●日本放浪の旅人

 

 彼の名前は寅平といって、明治24年(1890年)の寅年生まれ。

 名古屋にやってきたのは昭和になってから――40歳を過ぎた頃のようです。

 というのはその頃、祖母と結婚し、父をはじめ子供を8人もうけているからです。

 名古屋に来てからは会社勤めをしていたらしいのですが、それ以前はいったいどこで何の仕事をしながら、どう暮らしていたのかさっぱりわからない。

 

 生前の父や叔父の話でよく出たのは、日本のあちこちを放浪してらしいこと。

 けっこう女たらしで、どこかに異母兄弟がいるかもしれないということ。

 異母兄弟の話はちょっと眉唾ものですが、仕事を求めてなのか、そういう性癖があったのかは、それこそ「フーテンの寅さん」のようにあちこちの土地を渡り歩いていたというのは本当らしい。

 

 僕も高校卒で家を出て、海外暮らしをしていたりしたので「おまえは隔世遺伝でじいちゃんに似たのだ」とよく言われました。

 

●いずれ寅平像を創り上げる

 

 これは僕の勝手な想像だけど、どこか丁稚奉公に出て、そこをクビになったか、逃げだしたかした後、露店とか見世物小屋みたいなところで糊口をしのいでいるうちに放浪生活が始まったのではないかと思います。

 

 どうせ事実がわからないのなら、いっそ明治・大正時代を舞台に、このじいちゃんを主人公にした物語を書いてみようかと思っています。

 そうすることで、自分にとっての祖父像を作り上げるのもアリではないかな、と思うのです。

 寅平じいちゃん、まだじいちゃんが亡くなった齢まではかなりあるのでがんばりmす。

 いずれまた会いましょう。

 

●家族メモリー

 

 というわけで、じいさん・ばあさんのことを回顧してきたけど、その子供たちもこの10年ほどの間にち次々と亡くなってしまって、父方の8人きょうだいのうち、存命しているのは叔父さんひとり、母方の8人きょうだいは、母を含め3人存命。

 

 僕が育てられ、幼い頃に暮らしていた世界は、もうほとんど跡形もなく消え去ろうとしています。

 世の中もあの昭和の時代とはまったく違った世界に変りつつあります。

 

 だから自分の記憶の中にしか残っている人たちを大事にしていきたいと思っています。

 


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先祖ストーリー③:父方のばあちゃん:狭い家の中の女同士のバトル

 

 お盆ということで先祖の話。

 じいちゃん・ばあちゃんの話です。

 その②は父方の祖母の巻。

 

●当時のわが家の住環境

 

 4人の祖父母の中でいちばん長く一緒に時間を過ごした人、また、いちばん長く生きていた人です。

 といっても亡くなったのは僕が中学2年の時で、かれこれ40年以上前。14年ほどの間、同じ家で暮らしていたことになります。

 

 実家は僕が小学6年生の夏に建て直しましたが、古い家は6畳が三つきり。玄関と台所は土間になっており、ちょっとした裏庭がついているというつくり。トイレは汲み取り式、お風呂は最初ありませんでしたが、のちに家の外にちょっとした小屋を作って取り付けた、という具合でした。

 

 その大して広くもない家に祖父母はもちろん、複数の叔父や叔母が同居していたり、時々、父の仕事の関係の人なのか、よく関係性の分からない人たちも出入りし寝泊りし、多い時は10人くらいで暮らしていたと思います。

 

 そうした何やら混とんとした環境はかなり特殊なことなのだろうと思っていましたが、いろいろ話を聞くと、昭和40年代頃までは似たような家庭も少なくなかったようです。

 そういえば僕の従妹や友だちとか、6畳一間のアパートに5人も6人も一緒に雑魚寝している家庭はザラにありました。

 

 おおらかと言えば、おおらか。いい加減と言えば、いい加減。

 子供だったから気にしなかったけど、大人のプライバシーはいったいどうなっていたのか?

 

●母VS祖母・叔母の目に見えないバトル

 

 というわけで、うるさいガキはいるわ、小姑はいるわ、年寄りはいるわで、うちの母親はしじゅうイライラしていたような記憶があります。

 

 あんまりおばあちゃんとの相性も良くなくて、あからさまにぶつかることはなかったけど、いろいろお互いに牽制し合っていた。

 

 おばあちゃんは一応、母を立てて引くのですが、やはり不満を抱えていたようで、時々、ぶつくさこぼしていました。

 

 僕にはやさしくて、よくお菓子とかお土産とか買ってくれたのだけど、母はそれが気に入らなかった。

 こっちからも愚痴・陰口が聞こえてきます。

 

 ついでに言っちゃうと、おばあちゃんの買ってくれるお菓子とかお土産は、どうも口に合わないものが多かった。

 そのへんの味覚の違い・好みの違いが、明治生まれの人と昭和生まれの小僧とのギャップになっていた。

 だからごちそうになったありがたみがイマイチ薄いんだよね。

 こんな自分勝手なことを言ってごめんなさい・・・と今は思うけど。

 

 また、しばらくの間、一緒に住んでいた叔母がいて、この人も僕を喫茶店に連れて行ってごちそうしてくれたり、よくお菓子をくれたりしていました。

 ちなみにこちらは若くてハイカラなので、感覚が合い、いつも好きなものを提供してくれ、強烈な印象がある。

 

 なので、母はこの二人が息子をスポイルしていると思っていて(実際、それは当たっていましたが)、神経質になっていました。

 でもその一方で、手のかかる、うるさいガキの面倒を見てくれて助かる・・・という側面もあったのですが。

 

 今にして思えば、僕という小僧をめぐって狭い家の中で、目に見えない女のバトルが繰り広げられていたわけです。

 

 僕としては双方の悪口を聞くのは気持ちよくなかっけど、それを我慢すればいろいろ報酬が入るという、子どもならではの打算があって、おばあちゃんや叔母さんの施しを素直に受け入れていました。

 

 だから思い返すと、このおばあちゃんに対する感情はけっこう複雑で、好きな部分と嫌いな部分がまぜこぜです。

 

●居場所を失くしたおばあちゃん

 

 新しい家になってからは、叔父や叔母たちはめいめい別に住むことになり、一緒に住むのは僕たちの親子とおばあちゃんだけになりました。

 

 おばあちゃんには仏壇のある広々とした六畳間が当てがわれ、母もそんなにイライラすることが減り、双方のストレスも解消されたのだろうと思います。

 けれどもこの頃から急速に祖母の影は薄くなっていきました。

 それから2年程のちに亡くなったのですが、その2年程の彼女の記憶がほとんど残っていない。

 

 年寄りは長年暮らしていた環境から新しい環境に移ると、たとえそれがどんなに快適な場だとしても居場所を失ったような感覚を持つ・・・と言われます。

 また、この世を去る時期を脳(潜在意識)が事前察知すると、徐々に霊魂と肉体が分離し始める・・・とう説も。

 そんな現象が祖母にも起こっていたのかもしれません。

 

 でもごく単純に、その頃、僕はもう小学6年生になっており、自分の部屋ももらってそこで時間を過ごすようになっていたので、祖母への関心が薄れていたからでないかとも思います。

 

 それにしても、何だかここでもあまり良い孫ではなかった感が強いなぁ。

 こちらのおばあちゃんにも謝らなきゃいけないようです。

 

 to be continue・・・

 


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先祖ストーリー②:母方のばあちゃん:7人の娘たちとの結束

 

 お盆なので先祖の話を書いています。

 先祖と言っても、じいちゃん・ばあちゃんまでしか遡れないけど。

 その②は母方の祖母の巻。

 

●夫を失っても娘がいるから大丈夫?

 

 僕の母の証言を真に受けるなら、母方の祖父、つまり母の父はバクチ好きで、いい加減で、若くして死んでしまったので、その妻だった祖母はさぞや苦労した…とは思いますが、じつはそうでもなかったのかな、とも感じています。

 

 たしかにお金はなくて貧乏だったかも知れないけど、傍目で見るほど不幸で困窮しているというわけでもなかった。

 

 なぜなら彼女には7人の娘という強い味方がいた。つまり、僕の母やその姉妹――伯母・叔母たちです。

 おまけに末っ子には黒一点の可愛い息子もいた。

 この子供たちは明るく祖母を支えていたと思います。

 祖母の思い出は、その家まるごとセットの思い出です。

 

●お正月は女の園

 

 僕は幼い頃、毎年正月の2日・3日には必ず母と一緒に一泊二日で祖母の家に行っていました。

 祖母の家は名古屋市中村区の「中村公園」の近くにあったので、僕らは「中村のおばあちゃん」と呼んでいました。

 町中ではありましたが、当時はまだ畑もけっこうたくさんありました。

 

 その頃(昭和30年代後半~40年代前半)、すでに7人の娘のうち、5人は嫁に行っていましたが、必ず示し合わせて全員集合し、中村の家は女の園と化していました。

 

 当時、20代前半だった末っ子(僕の叔父さん)はそれを見越して、必ずスキー旅行に出かけており、僕の記憶の中ではほとんどいたことがありません。

 

 なので男と言えば、僕と従妹の二人のチビだけ。当然、そんなの男とみなされません。

 

 それで女衆は祖母を囲んで、ここぞとばかりのごちそう――すき焼き――をつつきながら、ガールズトークに花を咲かせるのです。

 

 何を話していたのかはもちろん憶えてないけど、その名古屋弁で奏でられるサウンドというか、音色だけは耳の奥にしっかり残っていて、思い起こすとそれが明るく温かく、力強い音楽のように響くのです。

 まさしく女系家族のパワーを感じます。

 

●祖母の家の思い出

 

 このすき焼きを食べるときのちゃぶ台が面白くて、真ん中の丸い板がスポンと抜けるようになっている、すると真ん中に丸い穴の開いたドーナツみたいなちゃぶ台になる。そして、そこにスポンとガス台とすき焼き鍋をはめ込んでグツグツさせながらみんなでつつくのです。

 

 上の伯母二人は近所に住んでいて、すき焼きを食べ終えると帰っていくのだけど、この二人の嫁ぎ先が地元の大きな市場や惣菜店を営んでいる家(僕は「市場のおばさん」とか、「天ぷら屋のおばさん」とか呼んでいた)で、どちらも割と裕福な商家だったようで、それで祖母もずいぶん助かったのだと思います。

 

 中村の祖母の家は本当にボロ家で、子どもにはトイレ――というより、まさしく便所!――が暗くてすごく怖かった。

 もちろん汲み取り式で、下からなんか出てくるんじゃないかと、やむなく大きいほうをするときはいつもヒヤヒヤしていました。

 

 そして必ず一泊していったのだけど、障子や襖もボロボロで、布団も古いもの。

 今の自分だったら我慢できるかどうか自信がないけど、なぜか子供の僕にはそれらがとても心地よく、面白かった。

 

 齢の近い従妹たちと一緒に遊べた、ということもあるのだろうけど、あの家を包む匂い・空気が大好きで、泊まるのを楽しみにしていました。

 

●かも南蛮の悔恨

 

 そんなわけで、中村のおばあちゃんはその家の主として記憶に焼き付けられており、人間としてどうだったのか、ということは今いちよく分かりません。

 そうしょっちゅう会うわけでもないので、孫には優しい人でした。

 ただ、僕の中には一つ罪悪感が残っています。

 

 ひどい状態だった古い家はさすがに住むのに限界が来ていたのか、祖母は叔父さんとともにすぐ近所の新しい家に引っ越しました。

 僕が小学校の高学年になった頃です。

 

 で、母とその新しい家に行ったのですが違和感を覚え、また会うのを楽しみにしていた従妹たちも来ていなかったので、僕は機嫌が悪く、ふてくされていました。

 

 そんな僕に祖母が「かも南蛮食べるか?」と聞いてきたのです。

 カモナンバンって、その時は何のことか分からなかったので、思わず「いらないよ、そんなもの!」と言い返したら、祖母は悲しそうな顔をしました。

 それで僕の機嫌が悪いことを見て取り、母は早めに予定を切り上げて帰ることにしました。

 

 帰りのバスの中で母にぶつくさ言われた覚えがありますが、依然として僕はふてくされたままでした。

 その時はもちろん、思いもしなかったけど、これが生きている祖母と会った最後の機会になりました。

 以降、その家に行くことはなく、僕が中学に入った年に祖母は亡くなったのです。

 

 結局、葬式にも出ぜ、祖母は記憶のなかったのですが、あれから40年以上たった今でも、そば屋のメニューで「かも南蛮」の文字を見ると祖母の顔が浮かびます。

 申し訳なかったなぁ。せっかくいい思いをさせてもらったのに。おばあちゃん、ごめんなさい・・・と心の中で謝っています。

 

 to be continue・・・

 


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先祖ストーリー①:バクチにハマって貧乏暮らし:娘たちに疎んじられた母方のじいちゃん

 

 お盆なので、先祖の話を書こうと思います。

 先祖と言っても、うちは父方も母方も由緒正しき家柄ではないし、家系図なんてものも存在しません。

 親に訊いてみたこともありますが、おおかたどっかのビンボーな百姓だったんだろ、という程度の回答でした。

 要はそんなことに関心のある人たちではないのです、

 

 なので、先祖と言っても僕に語れるのは祖父・祖母のことくらいです。

 

●明治生まれのジジ・ババは異国の住人

 

 最近は少子高齢化のせいで、3世代の距離が縮まり、孫とじいちゃん・ばあちゃんの親密度はぐんぐん高まっています。

 

 けど、僕らの世代にとって、祖父・祖母は明治時代に生まれて、今の中学生くらいの年齢から働き出し、貧乏生活と軍国化の波を体験し、戦争時代は社会の中核を担い、戦争が終わってやっと平和になって豊かになってきたなと思ったら、もう人生終り・・・といった境遇の人たちです。

 

 彼らの生きていたそんな時代は、僕ら現代の日本人にとってまるで異国のようです。

 

 生活の基本である衣食住にしても、仕事にしても娯楽にしても、まったく違う文化の国の人たちだと言えます。

 もちろん、同じ日本人ではあるのだけれど、今の3世代のように共有できるものは極めて少ない。

 吸っている時代の空気・生活空間の空気がまったく異なるのです。

 

●サザエさんも、ちびまる子ちゃんもファンタジー

 

 日曜の夜のフジテレビのファミリーアニメ2作品はノスタルジーもあるけど、一種のファンタジーとして楽しまれているのだと思います。

 

 原作が戦後間もなく新聞の四コマ漫画として始まった「サザエさん」。

 アニメももう45年くらい続いていて(放送開始の頃も見ています)、表面的なライフスタイルは時代に合わせて現代風にしているけど、家族や近所の人たちとのつながり方など、本質的な部分はそのままキープしています。

 

 波平さんや舟さんは、ほとんど僕のじいちゃん・ばあちゃん世代的な存在です。

 

 いまやこうした「典型的な日本人の家族」とされた暮らしはほとんど幻想であり、そういう意味では「日本むかしばなし」に匹敵するのではないかと思います。

 

 昭和四〇年代が舞台の「ちびまる子ちゃん」。

 こちらは僕らとほぼ同世代で、僕は単純に自分の子供時代と重ね合わせて見られます。

 けど、若い世代の人たちにとっては、日常と地続できでありつつも、ちょっと浮き上がった「プチ・ファンタジー」のように映るのではないでしょうか。

 モモエちゃんだの、ヒデキだの、リンダだの伝説のアイドル(みんなまだ存命だけど)もいっぱい出てくるしね。

 

●語り部おらず、謎に包まれた母方のじいちゃん

 

 というわけで前置きが長くなってしまったけど、そんな異国の民のじいちゃん・ばあちゃんの話。

 当然のことながら、ぜんぶで四人います。

 

 まず母方の祖父。つまり母親の父。

 この人のことは僕はまるで知らない。

 というのは僕が生まれる前に、すでにこの世にいなかったから。

 割と若い頃――戦後10年も経たないうちに亡くなったらしい。

 

 子供の頃は何とも思っていなかったけど、割と最近いなってから気になって、何度か母に訊いてみたことがありますが、あまり話してくれません。

 

 「いい加減な人だった」

 

 というのが娘である母の印象。

 その言い方もずいぶんぶっきらぼう。

 

 母のきょうだういは末っ子は男子だが、その上は彼女を含め、女子ばかり7人。

 ちなみに母は双子の片割れです。

 

 それだけ子供を設けたのだから、それなりの結婚生活があったと思うのですが、どうも彼女の中での父親は好ましい存在ではなかったようで、思い出したくないし、話したくもないようです。

 

 ちらっとわかったのはバクチ好きだったらしい、ということ。

 そのため、家にお金がなく、母たちきょうだいは早くから働いて生計を立てなくてはならなかったようです。

 

 今と違って、男女差別が激しく、女子の給料は極めて低いのが一般的だった戦前の日本国にあって、当時の窮乏生活の元凶だった父=僕のじいさんに対しては恨みはあれど、愛情らしきものはほとんど残ってないのかもしれません。

 

 夫(=僕の父)は、そんな自分の父親とはほぼ正反対で、まじめに働いて金はしっかり稼ぐし、バクチも愛嬌程度にしかやらない人だったので、ずいぶん幸せな思いをしたと言います。

 

●じつはお洒落な遊び人?

 

 ちなみにこの女系家族の唯一の男子である、母の弟(=僕の叔父)は、割と二枚目の優男で、スキーなどのアウトドアスポーツを趣味にするなど、若い頃はちょっとシティボーイ風のイメージがありました。

 彼だけ昭和二けた生まれだし、末っ子だったので、お姉さんたちの癒しと希望の光として、ずいぶん可愛がられたのでしょう。

 

 会ったこともない母方のじいちゃんのことを想像するには、息子であるこの叔父さんのイメージを材料とするしかありません。

 なので、割としゃれた遊び人だったのかなぁ・・・と、良いほうへ考えます。

 母は嫌っているみたいですが、同じ男のせいか、僕はどこか彼に親近感を感じのです。

 ぜんぜん知らないんだけど、いちおう孫として。

 to be continue・・・

 


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映画「はじまりへの旅」の寓意とユーモア

 

 望んだとおりに生き、望んだとおりに死にたいのだけど、それがすごく難しい。

 はるか昔からほとんどの人間はそうだったのだけど、現代の先進国で暮らす人間がひどく思い悩み、そうした生き方・死に方を求めて悪あがきするのは、なまじ物質的に豊かになり、自由を手に入れているような幻想に囚われて育つからかもしれない。

 

 ということをよく考えていますが、そんな僕のような人間にとっては、素晴らしく面白い映画でした。

 

 そうでもない人には、ただのヘンテコな家族の巻き起こす大騒動、という物語でしょう。

 もちろん、それでも面白いと思えればいいけど。

 

 例によって息子が面白いというので、だいぶ遅れて観てきました。

 以下は、これまた例によってネタバレ。

 

●「生きる力」を身に着ける最強の子育て

 アメリカの森の中で暮らす、現代文明を拒否するかのような生活を送るサバイバルファミリー。

 

 父親は「生きる」ということに真剣で、18歳から8歳まで6人の子供たちとともに、森の中を駆けてナイフを使って動物を狩り、獲物を屠り、その肉で食事をする。

 また、岩登りなどにも挑戦し、過酷な自然環境の中での適応能力をつける。

 そうして鍛えられた子供たちの身体能力はアスリート並み。

 文字通り「生きる力」を養う教育・生活だ。

 

 体力のみならず、夜は火を囲んで本を読み、あらゆる学問に通じ理解し、学校なんか行かなくても子供たちの知力はみんな超一流。

 

 これは一種の理想的父親像であり、最強の子育て・教育の在り方だと思います。

 称賛されこそすれ、非難されるものではないはずなのですが、そうは問屋が卸さないのが現代社会のオキテです。

 

●現実と理想の間で引き裂かれた母の死

 ここに唯一欠けているもの――それは母親の存在です。

 母親はほとんどこの物語の中に登場しないのだけど、その存在が物語を動かす大きなテーマ。

 なんと、父子と離れて都会の病院に入院していた彼女は、精神を病んで自殺してしまうのです。

 

 物語の前半で、母(妻)が精神を病んだことが、消費文明をボイコットし、森の中で生きる・子供を育てることを選ぶ、大きなきっかけになったことが示唆されます。

 

 この両親は、自分たちを含む現代人の精神が不健康になるのは、資本主義社会、物質文明に支配された生活環境が原因なのだと考えたのです。

 

 ところがその考え方は違っていた。

 結局、子供たちの母――父にとっての妻は、現実の文明社会と、彼女と夫自身が理想とした自然の暮らしとの間で引き裂かれてしまった。

 

 そうした重苦しいテーマをはらんで、物語は軽快なテンポの、コミカルなロードムービーへ展開。

 一家は、母の葬式に出るべく、森を出て都会へ向かって旅します。

 その旅の中で、理想の父に最強の教育を受け、真の「生きる力」を身に着けたはずの子供たちが、現実のアメリカ社会の中では、ひどく脆く、奇異な存在であることが露呈されてしまいます。

 

 ひとりひとりの個性を尊ぶというアメリカでも、やはりこれだけ極端な個性は忌避されてしまう現実。

 日本の場合だったら、言わずもがなでしょう。

 

 この子供たちが皆、かわいくて素敵です。

 長男役は若い頃のジョニー・ディップに、次男役はレオナルド・ディカプリオに似ている。なんとなく。

 女の子たちも、名前は出てこないけど、みんな誰か先輩女優に似ている気がします。

 

●これがホントの家族葬?

 最も感動的だったのは、終盤の母親の「葬送」です。

 父と子供たちは埋葬(キリスト教の伝統で土葬)された母親を掘り起こし、遺体を森の中へ運んで自分たちで音楽を演奏しながら火葬します。

 そして残った遺灰を空港のトイレに流してしまうのです。

 

 こう書くとギョッとするかも知れないけど、この一連のシークエンスは、とても愛のこもった、心温まる、なおかつ神聖な場面です。

 

 これが母が遺書に遺した「自分の望む死」だったのです。

 

 最近、日本でも家族葬や散骨に人気が集まっていますが、これぞ真の家族葬であり、散骨。

 

 僕もこういう終わり方がいいなぁ。

 現代人らしく、最後の最後は水洗トイレでジャーッと流れていきたい。

 

 でも、実際にはこんなことは社会で許されないのです。

 日本ではトイレに遺灰を流すのは明らかに違法行為、たぶんアメリカでも同じだと思います。

 

●改めて子供の未来のこと

 長男(実は彼はアメリカ中の超一流大学にすべて合格している)はその空港から新しい環境に向けて旅立っていき、残った父やきょうだいたちは、なんとか現実と自分たちが培ってきたライフスタイルとの折り合いをつけた、新しい生活を送り始めます。

 

 今の若い連中、そしてこれから生まれ、育つ子供たちは、どんなライフスタイルを理想と考え、どう行動するのか?

 大人が示すライフプラン、ライフデザインは、はたして彼ら・彼女らにどれくらい有効なのか、改めてとても気になりました。

 

 監督さんはこの作品が長編2本目とかで、ちょっと青臭さも目立つけど、そこがまたいい。

 テーマは重く、とても考えさせるけど、寓意にあふれ、ユーモアたっぷりなところがいい。

 ミニシアターでの公開だけど、僕の中では大ヒット作品です。

 もっと大勢の人に見てほしいけどね。

 

 


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父親としての誕生日に「父親の誕生」を拾い上げる

 

 

 今日は息子の誕生日だったのですが、近所の図書館に行ったら「父親の誕生」という本がリサイクル本になっていたので、ついピックアップ。

 

 これは息子が生まれた頃、何回か(たぶん4~5回)にわたって、くり返し借りて読んだ本です。

 

 女は母親になるということを身をもって体感するのに対し、男が父親になるというのは、そう単純な話ではありません。

 

 その昔、「子育てをしない男は父親と呼ばない」というキャッチコピーがありましたが、子供の面倒をちゃんと見るかどうかはともかく、とにかく自分で子供を見て、触って、声を聞いて、「そうだ、これはおれの子なんだ」と自覚して胸に刻まない限り、男は父親にはなれないのです。

 

 そうした観点から、子供が生まれて男が父になることを「父親の誕生」と言い表した著者の慧眼と表現力は、まさしく目からウロコものでした。

 

 著者のマーチン・グリーンバーグ博士は、1960年代から父子関係の研究を行ってきた、アメリカの精神科医ですが、この本の内容は博士の個人的な育児体験をベースに、その研究成果を散りばめるような形で書かれています。

 

 けっして難しい育児書、あるいは子育てマニュアルを書いたものではなく、エッセイに近いものというか、いわゆる読み物として面白い。

 そして随所に見受けられる深い洞察は、一種の哲学書としての趣も持っています。

 

 確か息子が保育園に通っている頃までは、年に一度は借りて読んでいたような気がしますが、大きくなるにつれて、もう借りることもなくなり、すっかり忘れていました。

 

 それがたまたま図書館に行ったとき、リサイクル本として入口近くに置いてあったのです。

 なんだか懐かしい友だちに再開したような気分。

 

 でも、リサイクル本になっているということは、おそらくこの10年くらいの間、ほとんど借り手がいなかったということです。

 イクメン、増えているはずだけど、こういう本は読まないのかなぁ。

 

 確かにもう20年以上前に出された本で、内容のベースとなっている著者の育児体験は、さらにまた20年近く前のことなので、若干古い感じがするのだと思いますが、良い本なのに、もったいない気がします。

 

 で、子供の誕生日=僕の父親としての誕生日に出会ったのも何か意味あるのだろうと思い、捨てられた子を拾い上げるように家に持って帰ってきたというわけです。

 

 ページをペラペラとめくって、拾い読みすると、当時の、赤ん坊だった息子を抱いたときの軽さ・柔らかさの感覚がよみがえってきました。

 

 悪くない。

 父親になってよかった。

 子供の面倒を見てきてよかった。

 

 そして、こういう感覚がまだ自分のからだの中に残っている、ずっと人生の中にあるんだ、と思えるだけで、なんだかうれしく、満たされた気持ちになります。

 

 また時間のある時に、ゆっくり読み込んでみようと思います。

 


5月病は克服しない

 

 毎年GWが終わると、決まって耳に届くのが「5月病」の話題。

 ご存知の通り、新社会人や新入学した学生がかかる病気です。

 こんな美しい季節に気分がドヨーンとしちゃうなんて、もったいない。

 僕は経験したことないのでわからないけど、一体どれくらい深刻なものなのだろう?

 

 知らない強みで言ってしまえば、そんな病気にかかるのは、その仕事・職場なり、勉強・学校が自分に合っていない証拠ではないだろうか?

 そのアラームとして病気が出たのではないかと考えてしまうのです。

 

 どんな仕事・勉強だってストレスやプレッシャーはある。

 でも自分に合っていたり、大好きだったり、前向きに対処しようと思える状態なら、そんな病気にかかることはありません。

 

 ストレスにやられて5月病になってしまうのは、それが自分本来の希望に叶った道――仕事・勉強でないと、暗に心身が伝えているのではないかと思います。

 

 もしや、5月病患者の君は、誰か他の人の期待に沿うよう頑張らねば、と思ってやしないだろうか?

 たとえば親とか。

 

 最近は大学の入学式や会社の入社式にまで親がついてくるのが当たり前になっています。

 実際、1か月前にそういう光景を目にしました。

 

 表面的には微笑ましい。

 親は幸せそうで、誇らしげでもあります。

 でも君はどうだったのか?

 親孝行出来て満足だった?

 うん、きっとその時は。

 でも、1ヵ月経って落ち着いてくると、本当のきみの気持ちが頭をもたげてくる。

 

 一過性の、この5月だけの病気で済めばいいのいですが、本当にそれで終わりになるのか?

 本当は好きでもない学校・会社・仕事だけど、親は満足しているし、世間からもウケがいい。少々のストレスは付き物なんだから、おとなしく我慢するなり、心療内科で診てもらってやり過ごそう。

 そんなふうに考えているのではないだろうか?

 

 そうして我慢して頑張って、好きでもない、本当は望んでもいない仕事・生き方をして、それが習慣となっていくうちに心身には少しずつ「悪いストレス」が蓄積し、侵されていく。

 そして、人生面白くないなぁとブツブツ言いながら生活習慣として浸透していって、その結果が10年、20年先に、より深刻な病気となって出てくる可能性もある。

 現代病の多くは、そうした悪性のストレスが原因ですよ。

 

 5月病にかかってしまった人は、頑張って克服なんかしなくていいと思う。

 それよりこの際、病気に屈して静かにして、自分の心の声を聞いたほうがいい。

 そして、今後どうするかについて、自分に教えてもらったほうがいい。

 よし!と思えれば、そのまま会社も学校もやめてしまって構わない。

 

 そんなに早く方向転換できる機会が巡ってきたなんてラッキーじゃないですか。

 美しい花と新緑の季節が、そういうチャンスを与えてくれたんだと考えて、5月病を素直に受け入れ、未来の自分と向き合おう。

 

 

 

 


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緑化フェア横浜花物語

 

花の中にいると浮足立って客観性を失います。

 

 港の見える丘公園の「香りの庭」(沈床花壇という、地表から一段低いところに作られた花壇で、花の香りが逃げにくい構造になっている)。

 ここには写真撮影用にあちこちのベンチに花の冠とブーケが。

 

 おおステキだ!

 とゆーことで、連れ合いと一緒に撮ってみたはいいけど・・・主観と客観のギャップに悩まされることに。

 

 お互い顔を見合わせ、「こりゃどう見てもお上りさん夫婦だよね」。

 まぁ、GWのお笑いネタということで。

 


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キンガン+ローガン+虫メガネ

 

 気が付くと、いつの間にか頬を涙が伝っている。

 いや、べつに齢を取って涙もろくなっているわけではありません。

 最近、ますます目が悪くなって、すぐ目が疲れてショボショボしてしまう。細かい字がぜんぜん読めなくなってきた。

 

 こりゃいよいよメガネを変えなきゃいかんなぁ・・・

 と思っているところに、

 連れ合いがおでこの上に大きなメガネを引っかけているのに出くわしました。

 

 ナチュラルボーン・キンガンの僕とは正反対に、生まれてこのかた、視力2・0から落ちたことがなく、そもそもメガネをかけるのが嫌いという人なので、これまでほとんどメガネもサングラスも使っているところを見たことがない。

 

 それで

 「おいおい、なんだ?オードリー・ヘップバーンごっこやってるの?」

と尋ねたら、女優さんのごとく優雅なそぶり(?)で、スルリと取り外して見せてくれました。

 

 最近、通販番組などでよくお目にかかるメガネ型ルーペ。要するに拡大鏡。虫メガネ。

 AだかRだかのサイトでお安いのを買ったらしい。

 

 ちょっと借りてかけてみると、うん、よく見える。

 それにメガネ型だから手が空いて便利。

 本を読むには最適です。

 

 ただ、デザインは味もそっけもない黒いフレームのリムレス。

 いずれそのうち、お洒落なフレームや、派手なキンキラフレーム、ミッキーマウスとかキティちゃんなどのキャラフレームまで出てくるかも。

 

 おしゃれな虫メガネであなたもティファニーで朝食する?

 


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人形が幸せになれる国ニッポン

 

 先日、「仏事」の仕事で和歌山の清掃会社を取材したときのこと。

 その会社は仕事の半分以上が、遺品整理や生前整理、そして独居老人が亡くなった後の家の清掃などをやる、いわゆるデスケア関連の会社です。

 

 和歌山というのは高齢化の先進県で、人口全体に対する高齢者の割合が全国第6位。

 近畿地方ではナンバーワンとのことで、この数件、家の中を整理したいという高齢者が激増しているのだとか。

 デスケア業界で言う「生前整理」のニーズに応じて、このビジネスに参入する業者も増えているとのこと。

 

 そこでかなりの割合で出てくるのが、お人形さんです。

 この季節、父・母から子へ、祖父・祖母からかわいい孫へ、立派な五月人形が贈られます。少し前なら、もちろん、女の子を寿ぐひな人形が。

 

 これらの華やかな人形たちは、最初の数年は家の中ですごい存在感を放つのだけど、子供が大きくなるとともに、だんだんその存在感が薄れていきます。

 

 そして気が付けば、子や孫は大人になり、人形たちは楽屋の隅に引きこもった役者のように。

 ましてや子供が出て行ってしまった家では、こういっちゃなんだけど、ちょっと邪魔者になってしまう場合が多い。

 

 そんなわけで、その会社では生前整理の仕事を受けていると、2~3ヵ月ほどの間に倉庫に人形があふれてしまうのだそうです。

 

 スピリチュアルなんて信じないという人でも、やっぱり人形は「ただのモノ」としては扱えません。

 みんな多かれ少なかれ、口には出さないまでも「これ魂入ってる???」と考えてしまう。

 ポイとゴミ箱に捨てるわけにはいきません。

 

 じつはこの会社の近所には「淡島神社」という、人形供養で全国的にも有名な神社があります。

 長い間、家族の物語を育んできた人形たちはその役割を終えて、ふるさとの家をあとにし、しばしの下宿暮らしを終えたのち、生前整理屋さんの車でこの神社に辿り着きます。

 そして厳かに供養され、安らかな眠りにつきます。

 

 淡島神社に持って行ってもらえると聞くと、親御さんたちも安心して手放すことが出来るのだそうです。

 ここだけでなく、こうした場所が全国津々浦々きちんとあるということは、人形にとって幸せなことなのでしょう。

 子供にとっても、親にとっても、きっと。

 

 最期にちゃんと行き着き、安らぐ場所があるから、安心して人形が作られ、売り買いされ、魂が入り、人形の文化が豊かになったのかなぁ、キャラクター文化につながっているのかなぁと思ったりしています。

 


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カルテット:おとなとこども、あるいはアリとキリギリスのハイブリッドライフスタイルと友だち家族の未来

 

 TBSのドラマ「カルテット」は音楽、ミステリー、コメディの要素がとても上手にブレンドされ、丁寧に作られた、楽しいドラマでした。

 何よりも主役の「カルテット・ドーナツホール」の4人がチャーミング。

 

 そのチャーミングさは、仕事がなかったり、家族を失っていたり、アイデンティティがボロボロになっていたり・・・と、いろいろ複雑なおとなの事情を抱えながら、大好きな音楽を捨てない(捨てられない)子供であり続けているところからきていると思います。

 

●子供を卒業しない大人/アリにならないキリギリス

 

 芸術を志す若者たちが互いの夢を温め合いながら共同生活を送る、というドラマは昔からありました。

 その結末はだいたい夢破れて皆ちりぢりになっていくか、ひとりが成功してバランスが崩れて終わる、といったパターンがほとんど。

 つまり青春時代から卒業し、キリギリスからアリに変っていくというのが、一時代前までの、まっとうなドラマでした、

 

 ところがこの4人は「おとなこども」から卒業しようとしない。

 21日の最終話は、とんでもなくいびつな手段を使って、大ホールでコンサートを開く夢を実現させるのですが、それを経て、この4人は「友だち家族」のようにつながるのです。

 

 ドラマの中で控えめに描かれた恋愛も曖昧なまま、音楽を仕事にするのか、趣味にするのか、という人生の命題も曖昧なままでのエンディング。

 

 なんだかゆるゆるした、一種のメルヘンともファンタジーとも取れる終わり方ですが、「おとなこども」を卒業しない生き方、キリギリスをどこまでも続けていこうという生き方は、新しいライフスタイルと言えるのかも知れません。

 

●アリとしての幸せに確信が持てるか

 

 現代はおとなと子供の境界線があいまいになりました。

 20歳前後まで子供として教育を受け、社会人として仕事をし(つまり大人になり)、結婚し、子育てをして、60代で退職・引退し、人生の総括をするというライフスタイルは、もちろん、いまだ主流ではあるけれど、以前ほど厳然としたものでも、誰にも口答えさせないほど説得力のあるものでもなくなっています。

 

 特別な才能がない限り、生きていくためには、キリギリスなど早くやめてアリとなって働くべきという鉄板常識の人生観は、かつてはアリで十分幸せになれるという言葉を信じられたからこそ成り立っていました。

 けれども今は、その確信が揺らいでいるのではないでしょうか。

 アリとしてずっと働き続け、人生を全うする――それで幸せなのか?

 本当に好きなこと、やりたいことを我慢してアリになることにどんな意味があるのか?

 多くの人はそう感じているのではないかと思います。

 

 豊かな時代は、いくつになってもモラトリアムであり続けられる。

 それは非常に困ったことだと言われてきましたが、むしろかつての鉄板常識のおとなよりも、子供の部分をたくさん残している「おとなこども」のほうが、これから先も立て続けに起こるであろう社会環境の変化に対応しやすいのではないだろうか。

 

 みんな無意識の領域でそう思っているから、子供っぽいおとな――もうちょっと良く言えば、エイジレスが増えているのではないだろうか。

 

●これからのライフスタイルはハイブリッド、そして友だち家族?

 

 おそらくこれからは、大人と子供、アリとキリギリスのハイブリッドのライフスタイルが大きな流れになっていくのでは・・・と感じるのです。

 そうしたライフスタイルを実践する手立ての一つとして、カルテット・ドーナツホールのような「友だち家族」がある。

 

 現在、仕事に、家庭に恵まれている人でも、あの4人のような生き方、友だち家族のような在り方、音楽への純粋な愛で繋がり合える関係が羨ましいと思う人は結構多いのではないでしょうか。

 

 そして単に純粋なだけでなく、インチキ・ペテンだらけの大人の事情にまみれて葛藤する、彼らの子供の部分に共感を覚える人もまた、大勢いるのではないだろうか、と思うのです。

 


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ちょっと切なくて笑えるネバーエンディングな少女のバレエ物語

 

●妻の少女時代の話

 うちのカミさんは子どもの頃、バレエが習いたかったそうです。

 幼稚園生の時に何度もひとりでバレエ教室に通って真剣に見入っていたというから、かなりの💛度であったことが想像されます。

 

 今では小さい子がひとりでふらついていたりしたら、すぐに周りの大人から心配されて、そう長い間放っておいてくれませんが、時は昭和の真っただ中。そういうところはおおらかおおらかというか、随分いい加減でした。

 だからバレエの先生もある程度までは見過ごしてくれていたのでしょう。

 

 でもさすがに度重なると黙っているわけにもいかなくなり、とうとう「今度からはお母さんと来てね」と言われたそうです。

 

 で、意を決して勝負に出た彼女はお母さんに進言。

 が、あっけなくNGをくらって沈没。

 要は娘にバレエを習わせるという気風の家庭ではなかったわけです。

 バレエやピアノなど習っている子は、おそらく今の1~2割程度だったのではないでしょうか。

 

 しかし、相当しつこく抵抗したようで、ついにその話をお父さんへ。

 すると「そうか。そこまで習い事がしたいのなら」という話になって、ついに・・・と、期待で胸がはちきれんばかりに膨らんだところで紹介されたのが、そろばん塾。

 まぁ実用的な習い事ならいいだろう、というわけだったのです。

 

 それで彼女は「アン・ドゥ・トロヮ、プリエ、シャッセ」の声の代わりに、

 「ねがいましてーは、13円なり、125円なり・・・」の声が響く教室へ。

 そろばんの玉を弾きながら「バレエを習っているはずだったのに・・・なんでここでパチパチやっているんだろう?」という思いにとらわれていたとか。

 

 その光景を頭に思い浮かべると、ちょっと切ないけどかなり笑えて、彼女に対する💛度が著しく上ってしまうのです。

 

●僕のバレエの先生の思い出

 というわけでカミさんは結局、バレエは習わずじまいだったのですが、じつは僕の方が習った経験があります。

 高校卒業後に入った演劇学校の必修科目にバレエがあったからです。

 俳優の肉体トレーニングとしてバレエは非常に有効なのです。

 

 心ならずも「プリエ、シャッセ」の世界を2年間、週3時間ほどやったわけですが、僕はひどい劣等生で思い返せば恥ずかしい限り。

 

 けれどもその講師だった古荘妙子先生の印象は鮮烈です。

 きりっと伸びた背筋。

 凛とした立ち姿。

 なにせナマで、しかも間近でバレエダンサーを見たのは初めてだったので。

 

 最近はダンスの上手な人が飛躍的に増えましたが、それでもやはりクラシックバレエの修練を積んだ人の動き・存在感は段違いです。

 フッと腕を上げただけで、ツィと足を上げただけで、周囲の空気を一変させてしまう。

 何かを表現するための細胞が自然とその空間にこぼれ出してしまう。

 

 簡単にいえば身体の軸がブレないということなんだけど、それだけじゃない、脳と下半身を結ぶ背骨からあらゆる方向へ自在にイメージを放射できる、脊椎動物の最高進化形という感じです。

 

 そして、その時の古荘先生の年齢が、僕の母と祖母の間くらいと知って、さらにびっくり。

 女性に対する概念がぶち壊れるようなカルチャーショックでした。

 

 もうずいぶん前に亡くなられた、と聞いていますが(年齢を考えればしかたありません)、バレエのことを考えると、華やかな舞台ではなく、あの古い板張りの床と、鏡が張り巡らされた教室に凛と立つ、古荘先生の黒いレオタード姿を思い出してしまうのです。

 

 

●やっぱりバレエを習いたい

 最近はバレエ教室が増え、日本のバレエ人口は、なんと世界一だと聞きます。

 もちろん、子供にバレエを習わせる人が増えたからですが、

 かつて習っていたけど熾烈な競争からこぼれ落ち、バレエやその他のダンスの道から降りた人、

 また、うちのカミさんみたいに、子供の頃、やりたかったのに出来なかったという人、

 そうしたおとなの女の人たちが、健康とか美容を理由に、昔より抵抗なく教室へ行けるようになったからでしょう。

 

 子育てなどがひと段落すると、

 ああ、人生もうここまで来ちゃったよ、

 もしかして、わたしの女としての役割はここまで?と考えちゃったりすると、

 身体の奥底から、長らく眠っていたかつての夢がむくむく湧いてくるのかも。

 

 あの時はあそこでやめちゃったけど、もう一度踊りたい。

 親に言われて泣く泣く諦めたけど、今からでもやっぱり踊りたい。

 

 夫や息子に「ええっ!?」と驚かれないよう、

 表向きの理由は健康のために、美容のために。

 もしかしたら説明のために「なぜ私はバレエ教室へ行くのか」というプレゼンまでやらなきゃいけないかも知れないけど、本気でやりたい~。

 

 これもやっぱりちょっと切ない。

 そして気を悪くしないでほしいけど、かなり笑える。

 でも、笑えるからいい。

 面白くて、笑えて、だから応援もしたくなる、

 そんなおとなの夢がいっぱいあふれると嬉しいなぁ。

 


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親子漫才・ジジババ孫漫才・ロボット漫才

 

 落語・漫才は好きなのだけど、普段はほとんど見ていない。

 ので、正月は例年3日にやっているNHKの「東西寄席」をコタツでグダグダしながら観るのを楽しみにしています。

 NHKも最近はゆるくなってきていて、「だいじょうぶか」と思えるような、結構きわどいネタも飛び出してきて面白い。

 同時に芸人の方も「なんだかんだって、NHKだからな・・・」という意識がはたらくのか、程よく抑制が効いていて、そのバランス感が正月らしくて良い感じなのです。

 

 特に高齢域に達したベテラン芸人さん――ケーシー高峰や大助・花子らは「まだまだ生きるでぇ~」と言わんばかりに、自分たちの老いや病も笑いのネタに。きっと彼らは、少なくとも舞台上では、相方の死・自分の最期さえも笑い飛ばしてしまうでしょう。

 存在そのものを賭けて、でありながら軽やかに。

 

 笑いと気合をいただき、これが終わるとお正月も、ああ堪能した。そろそろ仕事モードに移行するか・・・、という気分になれるのです。

 

 今年気になったのは「漫才と家族」。

 漫才は昔から家庭内手工業というか、家族でやる場合が多く、今でも夫婦、兄弟、従妹などでやっているコンビがいます。

 それでふと、そろそろ親子漫才というのが出てきてもいいんじゃないかと思いました。

 

 ツッコミ息子とボケ父ちゃん。ボケ娘とツッコミ母ちゃん。もっと飛んで、ジジ・ババ×孫でやっても面白いのではないかな。

 

 また、いずれロボットとの漫才があってもいい。

 故人となった名人の芸の録音データをアンドロイドのボディに入れて公演するということも実際行われているようです。

 日本のAI・ロボット技術は芸能・芸術分野でもこれからどんどん活用されていくでしょう。

 今年は久しぶりに寄席に足を運びたいなぁ。

 

 

2017・1・4 Wed


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お正月のワクワクすごろく

 

 お正月は近所の大宮八幡宮へカミさんと息子と初詣。

 参道にある材木屋には今年も干支の絵が描かれています。

 

 もちろんチビの頃の話ですが、お正月には息子とよく双六を作って遊びました。

 一反木綿やろくろ首に乗って6コマも10コマも進んじゃう「妖怪すごろく」、ワープ航法をしたり、ブラックホールにはまっちゃって1を出さないと永遠に抜け出せない「宇宙すごろく」、恐竜大行進の過去からロボットと暮す未来を行き来する「タイムマシンすごろく」など、いろいろ作りました。

 遊びに来る友達も盛り上がって遊んでいました。小学生の低学年頃までですが。

 

 そういえば、人生山あり谷ありの人生ゲームも、早い話がすごろくです。

 一生懸命早く「あがり」の億万長者に到達して、まだ上がれない連中を高みの見物する、というのが快感でしたが、リアルな人生で「あがり」とは何だろう?

 

 子供が成人しちゃったら、あとは定年まで働いて、退職金と年金で何とかやりくりして、趣味を楽しみながら、孫と遊ぶのを楽しみにして・・・というのが「あがり」なのでしょうか?

 

 これまではそうだったのかも知れない。

 現に僕の父親(サラリーマンではなかったけど)はそうでした。

 でも、これからはそうではない。おそらくそうではあり得ない。

 10年くらい前までは考えられなかったけど、そんな人生の定番モデルはここ数年でメルトダウンしてしまった。

 僕らは100まで生きるかもしれない。だとしたら、もしかしたら僕らはまだ「青年」なのかもしれない。体力は落ちてるけどね。

 もう70,80まで働くのは当たり前、みたいな世界が始まっている。

 そして生活のためにお金を稼ぐとともに、みんな、自分にとって何が面白いのか、何が大事なものかを再び発見し、確かめながら生きる――そんな未来が始まっている。

 

 なんだか子供が大人になったら、こっちの方は「ふりだしにもどる」になってしまったみたいだ。

 そういえば、息子に作ってやったすごろくには、「あがり」の寸前でふりだしにもどされてしまう落とし穴を作っていました。

 でも、そうやすやすと上がってしまった面白くないよね。

 自分にとっての「あがり」は何なのだろう?

 と考えつつ、ワクワク・・・というよりもドキドキしながら、またサイコロを振ることにします。

 

2017・1・3 Tue


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母の世界深化縮小

 

 母が入院したとの知らせを受けて急遽帰省。

 8年前、父が亡くなった時と同じ病院。ほぼ同じ時期。ロビーには8年前と同じ(たぶん)クリスマスツリーが飾ってありました。

 

 けれども大したことなくて、溜まった肺の水が抜けて、血圧が下がって歩けるようになれば年内には退院できるとのこと。三日ほど見舞いに通いましたが、だんだん元気になって「病院の食事はうまくない」と文句言いつつ、パクパク食べています。

 

 父の死後、話を聞くのが僕の仕事になっているので、今回もとにかくあれこれ話を聞きました。

 内容はいつもほぼ同じで「わたしは幸せだった、恵まれていた」と訥々と話し、父(夫)のことをほめそやします。

 どちらも昭和ヒトケタ生まれで、今の感覚で言う「仲睦まじい夫婦」という感じでは全然なかったのだけど、それなりに支え合って生きてきた、と実感できるのでしょう。

 

 その反対に、僕の目から見て結構仲が良いと映っていたきょうだい(つまり僕の叔父や叔母)に対しては、割と冷淡になっています。

 というのは、今年の夏、6歳違いの妹が亡くなったのだけど、結局、葬式にも行きませんでした。(と、今回、僕も初めてそのことは知りました)

 齢を取るといろいろ面倒くさくなる、というのが母の言い分。

 2年程前まではそれでもちゃんときょうだいや親戚の葬式には行って、あれこれ喋っていたのですが。

 

 

 最近、母を見て僕が思うのは、人間、老いるに従い、だんだん子供に戻っていくのかな、ということです。

 子供の世界・視野は狭い。それが成長につれてどんどん広がり、大きくなっていくわけだけど、老いるとその逆の現象が起き、だんだん世界が縮小していく。

 言い換えると日狩りをなくす代わりに、限りなく深化していくのかもしれない。

 その分、この世とは異なる別の世界が広がって見えてきて、そちらのほうへ移行していくのかもしれません。

 

 意識の中では身近にいる人間、自分の思い入れの深い人間だけが残り、そうでない人の存在は、血縁関係者でも、親友だった人でも遠のいていってしまうのでしょう。

 

 その人の生活の核が残る。

 そしてさらに進むと、さらにそれが絞り込まれ、その人の“生”の核が残る。

 

 両親にはまだ教わることがあるようです。

 

 

2016・22・16 THU


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二階のお兄ちゃん

 

 うちはカミさんが女性と子供用の鍼灸院をやっているので、週に半分以上は小さな子供らが来ています。

 で、その子供たちの興味は階段の上に注がれます。

 

 「あの2階はどうなっているの? 誰かいるの?」と質問するものだから、カミさんが「おじさんとお兄ちゃんがいるんだよ」と答えると、彼ら・彼女らの興味は「おじさん=僕のこと」は完全にスルーして、「お兄ちゃん」の方に集中し、目をキラキラさせながら言うのです。

 

「ほんと? お兄ちゃんがいるんだ!」

 

 幼稚園や保育園、あるいは小1・2くらいまでの子供の想像する「お兄ちゃん」あるいは「お姉ちゃん」というのは、だいたい上限どれくらいの齢なのか?

 やっぱり小学校5~6年くらいまででしょうか。

 

 と、自分の子供の頃を振り返ってみると、やっぱりもう中高生くらいのお兄ちゃん・お姉ちゃんだと距離感を感じていました。

 当時は制服を着ている姿を見ることが多かったせいもあると思うけど、やっぱり子供の直観というのは素晴らしく、思春期になった人間には自分と違うフィールドに属する「におい」を感じてしまうのかもしれません。

 

 で、先週、夕方に来た、幼稚園年長の女の子はけっこう粘っていて(2階の部屋で仕事をしていると声が聞こえる),「今日はお兄ちゃんは? ねえ、いるの? ねえ、せんせい・・・」と食い下がっている。

 カミさんが「今日はお仕事に行っていてお留守だよ」(実際いなかった)とたしなめて、やっと帰っていきましたが、彼女の中ではどんなお兄ちゃんの姿が輝いていたのか?

 

 残念ながら、うちのお兄ちゃんはもう来年成人式なんだよね~。

 彼女にとっては、お兄ちゃんだか、おっさんだかわかんないくらいだろうね~。

 きっと見たらびっくりしちゃうでしょ。

 「子どもの夢を壊すから出てこないように」と息子に言っておきました。

 

 で、またその後、インターネットを見ていたら、昨年、「お兄ちゃん、ガチャ」というテレビドラマを放映していたことを発見。知らんかった~、不覚。

 どうも忙しい日々を送る小学生の女の子が、ガチャポンで理想のお兄ちゃんを次々にゲットするというお話らしい、ガチャポンなので、当然、当たりもあればハズレもあって・・・ということでドラマが展開するようです。

 

 「彼氏も結婚相手も所詮は他人だけど、お兄ちゃんは永遠不変」というのが、このドラマのキャッチフレーズ。

 

 女性の方々、そうなのですか?

 実際にお兄ちゃんのいる方々、どうなのでしょう?

 

 どうもきっとここでいうおにいちゃん・おねんちゃんは、リアルな兄・姉とはまた別物のファンタジーの世界なのだろうな。なんと豊饒な日本語のイメージ。うーん、すごく興味を持ちました。おにいちゃん・おねえちゃんの世界、探究したい。

 

 

 

2016・12・12 Mon


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あの世に行った父と話す

 

 男は父親や祖父の年齢を基準に自分の寿命を考えています。

 つまり父が、あるいは祖父が何歳で死んだかを気にかけます。

 女の人の場合は、やはり母親・祖母のほうでしょうか。

 僕も父が80歳で死んだので、漠然と自分の寿命は80と思って生きています。

 もちろん、明日死ぬかもしれないし、もしかして100まで生きる可能性もあるけど。

 

 その父はやはり自分の父――僕の祖父の享年77を気にしていて、その齢を超えた時、「親父の齢を超えた」と感慨深げに語っていました。

 

 一緒に芝居をやっていた僕の友達は、両親がまだ生きているのにも関わらず50歳で死にました。

 もちろん意図して死んだわけではないけど、親不孝者になってしまった。

 「父の日」や「母の日」になに贈ろう、どうしようなんて考える必要はありません。

 子供はすべて7歳までに親孝行をすませています。

 七五三だって、親が子供に孝行してもらうためにあるのです。

 あとは親より先に死なないだけ。

 それで親孝行なんてオーケーなのです。

 

 僕の父が死んだのは8年前の12月。

 意識のある父と会ったのは、その年のちょうど今頃でした。

 いっしょにうどんを食べたのが最後の食事ですが、ぼろぼろこぼすので、途中から食べさせてあげました。

 

 その時、「もう会うのも話すのもこれで終わりかも・・・」と予感したのですが、

 案の定、12月に入ってすぐに倒れたという知らせを受け、病院に行ったときはすでに意識がなく、そのままぼ半月後に亡くなりました。

 

 「ハムレット」「アマデウス」など、主人公が父親の亡霊に悩まされる話は欧米によくありますが、これはキリスト教の神とリアルな父親のイメージを重ねているのでしょう。

 

 それとはちょっとニュアンスが違うけど、父親というのは死後も、というか、いなくなったからこそ影響力を振るうものだと最近、気が付きました。

 こういう時、親父ならどうするかとか、あの時、親父は何を考えていたかとか、無意識によく思い巡らせているのです。

 

 生前、大してコミュニケーションしておらず、死後、なんにも親父のことを知らなかったなぁと後悔することしきりでしたが、最近は、むしろあまりいろいろ知らないほうがいい。その隙間は自分の想像力で補えばいい、と思うようになりました。

 そのほうがいつも父の顔を思い浮かべられるし、会話ができるのです。

 

 もちろん会話というのは比喩ですが、生前より身近に父という人間に触れられるような気がするのです。そのベースには幼い頃にかわいがってくれた時に嗅いだ父親の匂い――陽だまりとタバコが入り混じったような匂いの記憶があります。

 嗅覚は原初の記憶を留めるとともに未来をイメージするための資料にもなり得るのだと感じています。

 

 ハムレットやモーツァルトみたいに、まだ父の幽霊にはお目にかかっていませんが、

そのうち夢の中にでも出てくるかもしれません。

 

 

 

2016・11・3


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ドラマシンポジウム企画:伝統家族の崩壊と未来

 先日もご紹介したドラマシンポジウムの企画の仕事でもう一つ、「ドラマで表現される20~21世紀のアジア社会」というのを書きました。

 

 ここ15年ほど、つまり21世紀になってからアジア諸国の経済発展は著しく、社会が大変動しています。

 それはあたかも70年前の戦後日本をほうふつとさせる有様で、そこには当然、戦前・戦中・戦後といった世代間ギャップが生まれます。

 

 たとえばベトナムなどは、ベトナム戦争を体験した親世代とその後に生まれた子世代では、ずいぶんと生活スタイルやものの考え方・感じ方が違っているようです。

 20世紀育ちと21世紀育ち、アナログ・マスコミ世代とデジタル・ネット世代、といった切り分け方もできるでしょう。

 

 こうした世代間ギャップは、どの国でも家庭や職場での人間関係や人生観に大きな影響を及ぼしています。

 各国のテレビドラマにはそうした現実が色濃く反映されているのではないか、そしてそれはどのように表現されているのか・・・ということをシンポジウムのテーマにすると面白いのでは・・・という内容でした。

 

 これは実際、とても気になるところで、現在も着々と進行している都市化・近代化・経済発展は、日本がそうであったように、あっという間に伝統社会の秩序を崩してしまうでしょう。

 

 日本の場合、20世紀前半までの伝統的な大家族から戦後=20世紀後半の核家族へ、21世紀になると核家族からさらに個別化した家族へと、家族像が大きく変わり、今や半世紀前まであった生活習慣・冠婚葬祭のしきたりなどは、ほとんど「文化財」の部類へ。

 意識して大切に守らなくてはいけない、絶滅危惧種になりました。

 

 タイ、ベトナム、フィリピン、インドネシアなどの場合はどうなのでしょうか?

 これらの国の情報は断片的にしか伝わらないので、その国の特徴ということで、どうしても伝統文化=異文化の印象が強いのですが、実際はすでに人々の日常生活は、かなり日本と共通する部分が多いのではないでしょうか。

 

 

 やはり大きいのはインターネットでしょう。

 外国の情報もリアルタイムで共有できるので、特にカルチャーの世界では世界中の人に共通認識・共有コンテンツが生まれます。(最近ボーダーレスで大流行した「ピコ太郎」がいい例かも)

 

 これは世界にとっていいことなのか。世界を面白くすることなのか?

 

 この先さらに各国の経済状況、社会環境、文化レベルはどんどん均一化していくことは間違いないと思います・

 しかし、その均一化のうえで、それぞれの文化をどう発信受信するかが、未来の世界を楽しむコツなのかな、という気がします。

 伝統文化とそれをアレンジするセンス・技術が価値を持つ時代になるのでしょうか?

 

 

2016・10・28 FRI


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ジョンとジュリアンとルーシーと心を癒す歌と仕事について

 

●Lucy In The Sky With Diamonds

 

 ある日、3歳の男の子が保育園で絵を描いた。

 その子の解説によれば、それは彼の好きな女の子がピカピカのダイヤモンドをいっぱいつけてマーマーレード色の空に浮かんでいる絵だった。

 

 音楽家だったその子の父親はその絵をヒントに一曲、歌を作った。それが「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイヤモンズ」。

 女の子の名はルーシー。男の子の名はジュリアン。そして父親はジョン・レノン。

 これはジョンとジュリアン父子の最も有名で、そして唯一ともいえる幸福なエピソードです。

 

 「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイヤモンズ」はとても幻想的な、当時のサイケデリックロック、のちのプログレッシブロックの源流にもなった曲で、「不思議の国のアリス」みたいなファンタジックなシーンを、ジョン・レノンが、のちの「イマジン」にも通じる、あの透明感あるちょっと中性的な声で歌っています。

 

●Lucy

 

 この曲が収められた名盤「サージェントペパーズ・ロンリーハーツクラブバンド」は1967年のリリースですが、それから40年以上たった2009年、父と同じくミュージシャンになったジュリアンは「ルーシー」という曲をリリースしました。

 彼が絵に描いたルーシーさんが病気で亡くなってしまったのです。

 

 彼にとっては幼なじみのルーシーさんに捧げる曲を作って歌ったのと同時に、父・ジョンへの想いを託したのでしょう。

 

●スター2世の受難

 

 ジョン・レノンは大好きだけど、ある雑誌で彼のインタビュー記事を読んでから、長男のジュリアン・レノンの言葉がとても胸に響くようになってきました。

 もうずいぶん前――彼がデビューして間もない頃、ジョンが死んでから10年後くらいでしょうか。

 彼はそのインタビューの中で「父はミュージシャンとして偉大ではなかった」と、暗にジョンを批判するようなことを語っていました。

 どうしてそんなことを言ったのだろう?

 その言葉が頭の奥にへばりついて離れませんでした。

 

 僕は当初、単純に父親への対抗意識からそんなセリフが出るのだろうと思っていましたが、どうもそうではなく、ジュリアンは「ジョン・レノンの息子」という宿命を背負ったことで、ほとんど「呪われた」と言ってもいいくらい、ひどく困難な人生を歩まざるを得なくなった、と思うのです。

 

●「愛し合おう」の矛盾 

 

 「パパはみんな愛し合わなくてはいけないと言っているのに、どうして僕には会ってくれないんだろう?」

 

 ビートルズ解散後、ジョンはオノ・ヨーコとともに世界へ向けて愛と平和のメッセージを発信し続けていましたが、その一方で前の奥さんとその子供であるジュリアンには一切会おうとせず、冷酷な態度を取り続けていました。

 

 その頃、6~7歳だったジュリアンが素直に口にしていたその矛盾は、彼の心の奥深くに根を張り、成長しても消えるどころか、ますます大きく膨らんでいったようです。

 

 その後、ジョンは義務感からか、ニューヨークの自宅に何度かジュリアンを招いていますが、そこでもあまり和やかに接することはありませんでした。

 天才・カリスマと呼ばれる人によくある話ですが、ジョン・レノンも「子供の部分」が非常に大きく、感情にまかせて人を容赦なく傷つけることがよくあったようです。

 特に自分とそっくりな上に、母親(離縁した前妻)の影――彼女を捨てたことにおそらく罪の意識を持っていた――を宿している息子に対しては、特にいらだちと怖れを覚え、つい当たってしまうことがしばしばあったのでしょう。

 

●曲作り・歌うことがセラピー

 

 それでもジュリアンの方はいつか父親との関係を回復できるだろうと希望を抱いていましたが、その前に父は銃弾に倒れ、この世を去ってしまいました。

 彼は永遠に、父から受け取ったひどい矛盾――心の捻じれを修復するチャンスを永遠に失ってしまったのです。

 

 それから長い時間が経ち、父がこの世を去った年齢も超え、幼なじみの死との遭遇した彼は、ルーシーの歌を作ることで自分自身を取り戻し、父親を許せるようになった、過去の痛みや怒りを解放できるようになったとインタビューで語っています。

 

 「曲を書くことは、僕にとってセラピーだ。人生で初めて、それを感じると同時に信じることができた。そして、父やビートルズを受け入れることもできた」

 

 

●癒しとしての仕事

 

 こうした思いを抱くことできたのは、彼が音楽を作る人だからだろうか。

 僕は思うのだけど、本来、人間にとって仕事というものは自分を癒すものではないのだろうか。

 

 たとえば、母親にとって子供を育てるのは「仕事」だけど、その仕事によって自分の生が癒されているのではないだろうか。

 

 歌手は歌うことで、ダンサーは踊ることで、俳優は演じることで、絵描きは絵を描くことで、ライターは文章を書くことで、料理人は料理を作ることで、大工は家を建てることで、自分を癒している。

 

 もちろん、歌を聴いたり、絵を見たり、話を聞いてもらったりして癒されることはあります。

 セラピストのお世話になることもあるかもしれない。

 だけど、この社会で生きる中で損なわれた気力・体力の根本的な回復を図れるのは、自分自身が心から打ちこむ行為からでしかあり得ないのではないかと思うのです。

 

 あなたにとっては何が自分の本当のセラピーになるのでしょうか?

 好きな音楽を聴きながら考えてみるといいかも知れない。

 

 

2016・10・9 SUN


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家族ストーリーを書く仕事② 個の家族

 

  「これから生まれてくる子孫が見られるように」

 ――今回の家族ストーリー(ファミリーヒストリー)を作った動機について、3世代の真ん中の息子さん(団塊ジュニア世代)は作品の最後でこんなメッセージを残しています。

 彼の中にはあるべき家族の姿があった。しかし現実にはそれが叶わなかった。だからやっと安定し、幸福と言える現在の形を映像に残すことを思い立った――僕にはそう取れます。

 

 世間一般の基準に照らし合わせれば、彼は家庭に恵まれなかった人に属するでしょう。かつて日本でよく見られた大家族、そして戦後の主流となった夫婦と子供数人の核家族。彼の中にはそうした家族像への憧れがあったのだと思います。

 

 けれども大家族どころか、核家族さえもはや過去のものになっているのでないか。今回の映像を見ているとそう思えてきます。

 

 団塊の世代の親、その子、そして孫(ほぼ成人)。

 彼らは家族であり、互いに支え合い、励まし合いながら生きている。

 けれど、その前提はあくまで個人。それぞれ個別の歴史と文化を背負い、自分の信じる幸福を追求する人間として生きている。

 

 むかしのように、まず家があり、そこに血のつながりのある人間として生まれ、育つから家族になるのではなく、ひとりひとりの個人が「僕たちは家族だよ」という約束のもとに集まって愛情と信頼を持っていっしょに暮らす。あるいは、離れていても「家族だよ」と呼び合い、同様に愛情と信頼を寄せ合う。だから家族になる。

 

 これからの家族は、核家族からさらに小さな単位に進化した「ミニマム家族」――「個の家族」とでもいえばいいのでしょうか。

 比喩を用いれば、ひとりひとりがパソコンやスマホなどのデバイスであり、必要がある時、○○家にログインし、ネットワークし、そこで父・母・息子・娘などの役割を担って、相手の求めることに応じる。それによってそれぞれが幸福を感じる。そうした「さま」を家族と呼称する――なかなかスムーズに表現できませんが、これからはそういう家族の時代になるのではないでしょうか。

 

 なぜなら、そのほうが現代のような個人主義の世の中で生きていくのに何かと便利で快適だからです。人間は自身の利便性・快適性のためになら、いろいろなものを引き換えにできます。だから進化してこられたのです。

 

 引き換えに失ったものの中にももちろん価値があるし、往々にして失ってみて初めてその価値に気づくケースがあります。むかしの大家族しかり。核家族しかり。こうしてこれらの家族の形態は、今後、一種の文化遺産になっていくのでしょう。

 好きか嫌いかはともかく、そういう時代に入っていて、僕たちはもう後戻りできなくなっているのだと思います。

 

 将来生まれてくる子孫のために、自分の家族の記憶を本なり映像なりの形でまとめて遺す―― もしかしたらそういう人がこれから結構増えるのかもしれません。

 

 

2016・6・27 Mon


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家族ストーリーを書く仕事① 親子3世代の物語

 

 親子3世代の物語がやっと完成一歩手前まで来ました。

 昨年6月、ある家族のヒストリー映像を作るというお仕事を引き受けて、台本を担当。

足掛け1年掛かりでほぼ完成し、残るはクライアントさんに確認を頂いて、最後にナレーションを吹き込むのみ、という段階までこぎつけたのです。

 

 今回のこの仕事は、ディレクターが取材をし、僕はネット経由で送られてくるその音源や映像を見て物語の構成をしていきました。そのディレクターとも最初に1回お会いしただけでご信頼を頂いたので、そのあとはほとんどメールのやり取りのみで進行しました。インターネットがあると、本当に家で何でもできてしまいます。

 ですから時間がかかった割には、そんなに「たいへん感」はありませんでした。

 

 取材対象の人たちともリアルでお会いしたことはなく、インタビューの音声――話の内容はもとより、しゃべり方のくせ、間も含めて――からそれぞれのキャラクターと言葉の背景にある気持ちを想像しながらストーリーを組み立てていくのは、なかなかスリリングで面白い体験でした(最初の下取材の頃はディレクターがまだ映像を撮っていなかったので、レコーダーの音源だけを頼りにやっていました)。

 

 取材対象と直接会わない、会えないという制限は、今までネガティブに捉えていたのですが、現場(彼らの生活空間や仕事空間)の空気がわからない分、余分な情報に戸惑ったり、感情移入のし過ぎに悩まされたりすることがありません。

 適度な距離を置いてその人たちを見られるので、かえってインタビューの中では語られていない範囲まで自由に発想を膨らませられ、こうしたドキュメンタリーのストーリーづくりという面では良い効果もあるんだな、と感じました。

 

 後半(今年になってから)、全体のテーマが固まり、ストーリーの流れが固まってくると、今度は台本に基づいて取材がされるようになりました。

 戦後の昭和~平成の時代の流れを、団塊の世代の親、その息子、そして孫(ほぼ成人)という一つの家族を通して見ていくと、よく目にする、当時の出来事や風俗の記録映像も、魂が定着くした記憶映像に見えてきます。

 これにきちんとした、情感豊かなナレーターの声が入るのがとても楽しみです。

 

 

2016・6・26 Sun


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死者との対話:父の昭和物語

 

 すぐれた小説は時代を超えて読み継がれる価値がある。特に現代社会を形作った18世紀から20世紀前半にかけての時代、ヨーロッパ社会で生まれた文学には人間や社会について考えさせられる素材にあふれています。

 

その読書を「死者との対話」と呼んだ人がいます。うまい言い方をするものだと思いました。

 

僕たちは家で、街で、図書館で、本さえあれば簡単にゲーテやトルストイやドストエフスキーやブロンテなどと向かい合って話ができます。別にスピリチュアルなものに関心がなくても、書き残したものがあれば、私たちは死者と対話ができるのです。

 

 もちろん、それはごく限られた文学者や学者との間で可能なことで、そうでない一般大衆には縁のないことでしょう。これまではそうでした。しかし、これからの時代はそれも可能なことではないかと思います。ただし、不特定多数の人でなく、ある家族・ある仲間との間でなら、ということですが。

 

 僕は父の人生を書いてみました。

 父は2008年の12月に亡くなりました。家族や親しい者の死も1年ほどたつと悲しいだの寂しいだの、という気持ちは薄れ、彼らは自分の人生においてどんな存在だったのだろう?どんなメッセージを遺していったのだろう?といったことを考えます。

 

父のことを書いてみようと思い立ったのは、それだけがきっかけではありませんでした。

死後、間もない時に、社会保険事務所で遺族年金の手続きをする際に父の履歴書を書いて提出しました。その時に感じたのは、血を分けた家族のことでも知らないことがたくさんあるな、ということでした。

じつはそれは当り前のことなのだが、それまではっきりとは気が付いていませんでした。なんとなく父のことも母のこともよく知っていると思いすごしていたのです。

実際は私が知っているのは、私の父親としての部分、母親としての部分だけであり、両親が男としてどうだったか、女としてどうだったか、ひとりの人間としてどうだったのか、といったことなど、ほとんど知りませんでした。数十年も親子をやっていて、知るきっかけなどなかったのです。

 

父の仕事ひとつ取ってもそうでした。僕の知っている父の仕事は瓦の葺換え職人だが、それは30歳で独立してからのことで、その前――20代のときは工場に勤めたり、建築会社に勤めたりしていたのです。それらは亡くなってから初めて聞いた話です。

そうして知った事実を順番に並べて履歴書を作ったのですが、その時には強い違和感というか、抵抗感のようなものを感じました。それは父というひとりの人間の人生の軌跡が、こんな紙切れ一枚の中に納まってしまうということに対しての、寂しさというか、怒りというか、何とも納得できない気持ちでした。

 

父は不特定多数の人たちに興味を持ってもらえるような、波乱万丈な、生きる迫力に満ち溢れた人生を歩んだわけはありませんい。むしろそれらとは正反対の、よくありがちな、ごく平凡な庶民の人生を送ったのだと思います。

けれどもそうした平凡な人生の中にもそれなりのドラマがあります。そして、そのドラマには、その時代の社会環境の影響を受けた部分が少なくありません。たとえば父の場合は、昭和3(1928)に生まれ、平成元年(1989)に仕事を辞めて隠居していました。その人生は昭和の歴史とほぼ重なっています。

 

ちなみにこの昭和3年という年を調べてみると、アメリカでミッキーマウスの生まれた(ウォルト・ディズニーの映画が初めて上映された)年です。

父は周囲の人たちからは実直でまじめな仕事人間と見られていましたが、マンガや映画が好きで、「のらくろ」だの「冒険ダン吉」だのの話をよく聞かせてくれました。その時にそんなことも思い出したのです。

 

ひとりの人間の人生――この場合は父の人生を昭和という時代にダブらせて考えていくと、昭和の出来事を書き連ねた年表のようなものとは、ひと味違った、その時代の人間の意識の流れ、社会のうねりの様子みたいなものが見えてきて面白いのではないか・・・。そう考えて、僕は父に関するいくつかの個人的なエピソードと、昭和の歴史の断片を併せて書き、家族や親しい人たちが父のことを思い起こし、対話できるための一遍の物語を作ってみようと思い立ちました。

本当はその物語は父が亡くなる前に書くべきだったのではないかと、少し後悔の念が残っています。

生前にも話を聞いて本を書いてみようかなと、ちらりと思ったことはあるのですが、とうとう父自身に自分の人生を振り返って……といった話を聞く機会はつくれませんでした。たとえ親子の間柄でも、そうした機会を持つことは難しいのです。思い立ったら本気になって直談判しないと、そして双方互いに納得できないと永遠につくることはできません。あるいは、これもまた難しいけど、本人がその気になって自分で書くか・・・。それだけその人固有の人生は貴重なものであり、それを正確に、満足できるように表現することは至難の業なのだと思います。

 

実際に始めてから困ったのは、父の若い頃のことを詳しく知る人など、周囲にほとんどいないということ。また、私自身もそこまで綿密に調査・取材ができるほど、時間や労力をかけるわけにもいきませんでした。

だから母から聞いた話を中心に、叔父・叔母の話を少し加える程度にとどめ、その他、本やインターネットでその頃の時代背景などを調べながら文章を組み立てる材料を集めました。そして自分の記憶――心に残っている言葉・出来事・印象と重ね合わせて100枚程度の原稿を作ってみたのです。

 

自分で言うのもナンですが、情報不足は否めないものの、悪くない出来になっていて気に入っています。これがあるともうこの世にいない父と少しは対話できる気がするのです。自分の気持ちを落ち着かせ、互いの生の交流を確かめ、父が果たした役割、自分にとっての存在の意味を見出すためにも、こうした家族や親しい者の物語をつくることはとても有効なのではないかと思います。

 

 高齢化が進む最近は「エンディングノート」というものがよく話題に上っています。

「その日」が来た時、家族など周囲の者がどうすればいいか困らないように、いわゆる社会的な事務手続き、お金や相続のことなどを書き残すのが、今のところ、エンディングノートの最もポピュラーな使い方になっているようだ。

もちろん、それはそれで、逝く者にとっても、後に残る者にとっても大事なことです。しかし、そうすると結局、その人の人生は、いくらお金を遺したかとか、不動産やら建物を遺したのか、とか、そんな話ばかりで終わってしまう恐れもあります。その人の人生そのものが経済的なこと、物質的なものだけで多くの人に価値判断されてしまうような気がするのです。

 

けれども本当に大事なのは、その人の人生にどんな意味や価値があったのか、を家族や友人・知人たちが共有することが出来る、ということではないでしょうか。

そして、もしその人の生前にそうしたストーリーを書くことができれば、その人が人生の最期の季節に、自分自身を取り戻せる、あるいは、取り戻すきっかけになり得る、ということではないでしょうか。

 

 


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母の卒業

 

 母が身の回りのことを整理したいと言うので、数日間、帰省した。

 足が悪くてあまり歩けないが、医者にもほとんどかかったことがないし、薬等もまったく飲まない。いたって健康なのだが。

 

 「ボケてきて考えるのがめんどくさくなったでいかんわ」というのが理由で、いろいろ閉まってあったものの整理を手伝ったり、庭の掃除などもした。

 

 昨年末の父親の7回忌の前からそんなことを仄めかしていた。

 父が亡くなってから生きる張り合いがなくなったと言う。

 この数年、帰るたびに父のことをよく話す。

 記憶の扉が開いたのか、今回は初めて聴く話もいくつかあった。

 もしかしたら父が母を呼んでいるのかもしれない。

 

 先日、息子の卒業のことを書いたが、母も人生から卒業しようとしているのか……いろいろ話を聞いて見守るしかない。

 帰りのバスの車内では父と母のいろいろなシーンの顔が次々と浮かび、本も読めなかった。

 両親のことをこんなに考えたのは、もしかして生まれて初めてかも知れない。

 


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卒業式の詩と死

 

 東京でも桜が開花し、卒業式シーズンももう終わり。

 うちの息子も今月、高校を卒業した。卒業式に出て奇妙な感覚に襲われた。

 

 「これは子どもの葬式なのだな」と。

 心の中で子どもは死ぬ。

 卒業式とは親が子どもの死に立ち会う場だ。

 

 息子の高校は、詩人の谷川俊太郎氏の卒業した学校(ご本人は学校が嫌いで、戦後の混乱期だったこともあり、ロクに登校していなかったらしい)だ。

 

 1968年の卒業生の要請を受けて、彼が「あなたに」という詩を創作して贈った。

 以来、半世紀近く読み継がれてきており、この日も式のラス前に演劇部の生徒が朗誦した。

 長いので、最後のフレーズのみ引用してみる。

 

 あなたに「火のイメージ」を贈り、「水のイメージ」を贈り、最後に「人間のイメージ」を贈る、というつくりだ。

 

あなたに

生きつづける人間のイメージを贈る

人間は宇宙の虚無のただなかに生まれ

限りない謎にとりまかれ

人間は岩に自らの姿を刻み

遠い地平に憧れ

泣きながら美しいものを求め

人間はどんな小さなことにも驚き

すぐに退屈し

人間はつつましい絵を画き

雷のように歌い叫び

人間は一瞬であり

永遠であり

人間は生き

人間は心の底で愛しつづける

――あなたに

そのような人間のイメージを贈る

あなたに

火と水と人間の

矛盾にみちた未来のイメージを贈る

あなたに答は贈らない

あなたに ひとつの問いかけを贈る

 

 

 けっしてうまい朗誦ではなかったが、おめでたさなど蹴飛ばすような圧倒的な言葉に、会場は神聖な空気に包まれた。まさしく葬式にふさわしく。

 

 親の心の中で、子ども時代の子どもは死んだ。

 子供はそんなことは知らない。彼らには前しか見えていない。

 自分もそうだった。

 中学も高校も卒業式のことなんてほとんど憶えていない。

 ただ未来へ進む。

 

 でも、大人は、親は、そうはいかない。

 後ろを振り返って、思い出を愛つくしんで、心置きなく泣いて、胸に刻みつけて、やっと前を向いて進める。

 


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父の物語について

 

 12月は1年の終わり……というのは当たり前ですが、この5年の間にに相次いで父親と親友が亡くなったので、僕にとっての12月は「死」を意識する月です。

 

 ただ5年も経つと、ただ悲しいだの寂しいだの、という気持ちだけでなく、彼らは自分の人生においてどんな存在だったのだろう?どんなメッセージを遺していったのだろう?といったことを考えざるを得ません。

 

 僕は父の死後、社会保険事務所で遺族年金の手続きをする際、彼の履歴書を書いて提出したのですが、父というひとりの人間の人生の軌跡が、こんな紙切れ一枚の中に納まってしまうことに何とも納得できないものを感じました。

 

 もちろん、役所の窓口や事務手続きをする人たちを相手に、自分の家族の物語をとうとうと語り伝えようとは思いません。

 また、父は不特定多数の人たちに興味を持ってもらえるような波乱万丈な、英雄やスターのような、生きる迫力に満ち溢れた人生を歩んだわけでもありません。

 むしろそれらとは正反対の、よくありがちな、ごく平凡な庶民の人生を送ったのだと思います。

 

 けれどもそうした平凡な人生の中にもそれなりのドラマがあります。

 そして、どんな人のドラマにも、その時代・社会環境の影響を受けた部分が少なくないと思うのです。

 

 僕は父に関するいくつかのエピソードと、昭和の歴史の断片を併せて書き残し、家族や親しい人たちが父のことを思い起こすための一遍の物語を作りました。

 

 本当その物語は父が亡くなる前に書くべきだったのかも知れません。

 けれども生前、とうとう父に自分の人生を振り返って……といった話を聞く機会は作れませんでした。

 

 そこで僕が生まれる前や幼い頃のこと、つまり父が若い頃のことは母から聞き書きし、自分の記憶と合わせて完成させたのです。

 

 自分で言うのもナンですが、なかなかいい出来で気に入っています。

 自分の気持ちを落ち着かせ、互いの生の交流を確かめ、その人がこの世で果たした役割を見出すためにも、物語をつくることはとても有効です。

 

 最近は「エンディングノート」というものがよく話題に上ります。「その日」が来た時、周囲の者が困らないように、いわゆる社会的な事務手続き、お金や相続のことなどを書き記すのが主体のようです。

 

 けれども本当に大事なのは、その人の人生にどんな意味や価値があったか、家族や他の人たちが知ることが出来る、ということ。

 

 そして、その人が最期に自分自身を取り戻せる、ということではないでしょうか。

 


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子供の誕生日は「父親」の誕生日

 

 きょうは息子の誕生日です。

 

 ちなみに作曲家のエリック・サティ、アイルランドの歌姫エンヤ、プログレッシヴロックバンドのYES、King Crimson、U.K.などで活躍した名ドラマ―・ビル・ブラッフォードなども今日5月17日が誕生日。

 

 そして、僕がおやじになった日——「父親」の誕生日でもあります。

 

 17年前も今日みたいにドピーカンでした。

 ドラマなんかで「生まれたか!」と言って父親がカンドーしたり、、奥さん抱いてうれし泣きしたりするシーンがあるので、自分もそうなるかなと思っていましたがゼンゼン。

 

 出産の立ち合いをやって寝てなかったので、ひたすら眠かったことしか覚えていません。

 カミさんの泊っていた部屋のベッドでグーグー寝てました。

 

 目が覚めたらとてつもない不安感に襲われ、今のうちだ、このまま逃走して過去の自分を捨て去って生きるのだ・・・という妄想にとらわれましたが、そんなことを実行する度胸なく、ずるずる17年・・・という具合。

 

 あの頃はひとりでおチビを抱っこして歩いていると「ニョーボに逃げられた男」と見なされることも少なくありませんでした(実際にどっかのおばさんに面と向かってそう言われた)。

 

 今はイクメン増えましたねー。

 そう言う意味ではこの17年で社会は進化したのかも知れません。

 がんばれ新人おやじ!

 


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立ちション教育

 

 お正月も明けて落ち着くと、ぼちぼち世間ではランドセルや学用品などの広告が目に付くようになる。うちの小僧君も高校入試だが、子どもを持つ家庭では、これから春になるまで入試・卒業卒園・入学進級のサイクルに突入するのだ。 
  
 で、先日、近隣のとある幼稚園が「男の子を持つお母さん方」に人気だという話を聞いた。どういうことかと聞いてみると、その幼稚園には男性の先生が数人いて、男の子のいい遊び相手になてくれるというのだ。 
 キャッチフレーズは「立ちションも教えます」。 

 広告文句としてはユーモアもあってなかなかふるっているが「え!?」と思ったのも事実。 
 「それって、お父さんのやるべきことじゃないの?」 
 お母さん方も、そうは思わないですか? 

 立ちションのしかたまで、幼稚園とか学校にお世話になる必要があるのか? 
 そしたら、男の子を持つお父さんは息子にいったい何を教えるというのか? 
 勉強? 仕事? スポーツ? 


 家事や育児に参加するお父さんは増えているようだが、それでも「おっぱいとオムツの取替えだけは妻まかせ」という人はまだ多いと聞く。
 おっぱいだけいはどうしようもないが、オムツだの立ちションだの、いわゆる「下半身の営み」は、人間の生きる根本に関わることだ。 
 その根本部分の面倒を見たり、感情を共有したりすることって、何よりも子育てにおいて何よりも重要なことなのではないか、と思う。

 いくらサッカーや野球が上手く、勉強や仕事が教えられるリッパなお父さんでも (もちろん、これらが教えられればカッコイイけど、より上手いおじさん・お兄さんや、プロのコーチがもいっぱいいる) 人間同士が繋がるための本質的な部分を素通りしていたら、本当の父子の絆というのは育まれないのではないだろうか?  それなくして「親子のコミュニケーション云々」と言ったって、うわべだけの、それこそきれいごとに過ぎないのではないだろうか。
 
 幼稚園児の息子を持つお父さん、オムツを素通りしてきてもまだ遅くない。

  一緒に立ちション・ツレションしよう。

 これぞ男同士の付き合いの基本。

 子どもの心の奥深くにお父さんのやさしさ・あったかさ・頼もしさがオシッコのようにじんわり染み渡ります。

 

 

 

2012・1・14 SAT


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ハムカツの呪い

   今回は食育について家庭内の会話です。

 

 小僧(息子): またハムカツの話?どんだけハムカツ好きなんだよ~! 

 

 僕: おれはもともとハムカツ大好き。ロンドン行ってますます好きになった。
   が、母は中学の修学旅行に行ってハムが嫌いになった。 

 

息子: あ、知ってる、その話。毎年一ぺんかニへんは聞かされている。
     もう40年くらい前の話だよね。 

 

僕: そうだ。もう40年もトラウマとして持ち続けている。

   おれなんか結婚する前からその話を繰り返し聞かされ続けているんだ。 

 

 妻(母): だって……。 

 

僕: ここで読者のために解説する。
   わが妻は中学の修学旅行で奈良京都へ行ったが、
   その旅館のメシのおかずがハムだったのだそうだ。
   朝飯にハム、それもペラペラの半分乾燥したヤツ。
   夕飯はその同じハムを揚げたハムカツ。 

 

息子: ショボ~。
    ボクなんて新潟・南魚沼でコシヒカリのごはんに、いろんなおかず満載。
    最後の日なんてお赤飯出たもんね。これがまた美味かった!
  (※詳しくは当ブログ過去記事「お米と田んぼとお母ちゃんのニッポン!」参照)

 

妻(母): いいなぁ、今の子どもは、。
      40年前は「子どもなんてハムでも食わしときゃ喜ぶだろう」

      って感覚だったからね。
      大勢いたからひとりひとりのことなんてどうでもよかったのよ。
      今のイヌネコより粗末に扱われてたと思うよ、昔の子どもは。 

 

僕:  まさしく。われわれの親世代は戦後の食糧難を経験しているから、

   子どもに対しては「食えるだけでも有り難く思え」ってのが根本姿勢だったからな。
   ちょっとでもワガママ言おうものならこっぴどく叱られた。
   おれは偏食大魔王の子どもだったから、給食の時間は地獄の苦しみだった。

   それに引き換え、今の子は確かに恵まれているね。

 

妻(母): アレルギーのこととかあるから無理に食べさせられることもないしね。

 

僕: うちの小僧君は幸い何でもだいじょうぶだからいいね。

 

妻(母): 離乳食を早くあげすぎたり、急いで進め過ぎると、トラブルが多くなるらしい。
      出来るだけ遅く始めて、ゆっくり進めるのがいいみたい。
      今は仕事に早く復帰したいお母さんにはそれが難しいみたいだけど。

 

僕: でも、あとあとのことを考えると少しの間、辛抱して「スロー離乳食」にした方が、
   親子ともにHAPPYになる確率が高いよね。
   それからオチビのうちは出来るだけレトルトや冷凍食品を避ける。
   さらにテレビを観ながら食事しない。
   やっぱこれをやると神経が分散されてしまって味覚が発達しなくなる。

 

妻(母): 赤ちゃんから食育?

 

僕:  そうだな。オチビの時ほど 食育が大事。

 

妻(母): そうするとこういうグルメな子どもになるってことね?

 

息子:  ボク、ハムの呪いがかからなくてよかった。コシヒカリのスシ食いてぇ~。

 

僕:  来年の誕生日にな。

 

  と、語らいつつハムカツで夕食を食べる我が家でした。

 

 

2111・6・8 WED


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子どもはイヌ時代を経てネコ化する

 

 「ネコつえぇ~~」  
 

 と、うちの小僧がTwitした。ネコが何にどう強いのかと言うと、震災のストレスに対して、という意味でだ。 

 

●大地震でパニックになったイヌと冷静沈着なネコ

 

 ちょっと前のことになる。

 うちで鍼灸師のカミさんがGWに医療ボランティアとして被災地に行ったときの話。

 泊めていただいた宮城の鍼灸師のお宅ではイヌとネコを両方飼っていた。

 イヌはもともと雑種の捨て犬だったのだが、しっかりしつけてあり、とてもいい子になっていた。

 それまでワンワン吠えたり、家の中の家具などを噛むような事はなかったという。 

 

 ところが、あの震災に遭遇して以来、ストレスで過去のトラウマが噴出するようになったらしい。

 事あるたびに怯えたように吠えまくり、部屋のカーテンも噛みまくってビリビリにしてしまったと言う。余震が来るたびに大騒ぎなのだそうだ。

 

 その反面、ネコの方はおっとりしていて冷静沈着そのもの。 

 

 「おいおい、大丈夫だ。そんなにパニクるなよ」 

 

 と、イヌをなだめるような仕草までするらしい。

 そんなこんなの話を先日うちでしながら、家族でイヌとネコに関する議論をしていたのである。 

 

 もちろん、一概にイヌ・ネコといっても一匹一匹キャラクターが違うので、一概に「イヌよりネコの方がストレスに強い」とは言えないだろう。

 しかし、僕の周りで聞いた話では、イヌの方がよりストレスに晒されやすい傾向にあるようだ。

 

●人間に対する依存度と独立性

 

 イヌは人間の心に寄り添って生きる動物だからだろう、と勝手に推測している。

 飼い主=育ての親とも言える人間が地震に恐怖を感じ動揺すれば、

 イヌも「これはタダゴトではない。もしかしてボクの命も危ないかも……」と、

 不安感を抱いてしまうのではないだろうか。

 

 件のワンちゃんは飼い主に捨てられた、という幼少期のトラウマを抱えているらしいので、よけいそうなったのかも知れない。

 野生の状態でならともかく、人間社会で生活するにおいて、イヌの方が人間に対する依存度が強く、ネコの方が独立性が高いのだ。

 

 ネコは一匹で街中をフラフラ歩いていても何とも思われないが、イヌは飼い主といっしょじゃないと違和感を持たれる……

 いい悪いではなく、そういう存在として、僕たち人間に深く認識されているのだ。

 

●イヌは子供で、ネコはおとな?

 

  僕は子どものいない頃は、完全ネコ派だった。

 ネコの独立性・自由度にシンパシーを感じていたのは、自分自身が子どもだったせいかも知れない。

 しかし、子どもが出来て親になってからは、だんだんイヌに親しみを感じるようになった。 

 

 とくに数年前に「イヌのしつけマニュアル」なるものを書く仕事をするため、イヌについてコンパニオアンアニマルとなった歴史や本来の習性等について、いろいろ勉強してからはイヌ派に大きく傾いた。

 飼い主さんといっしょに楽しそうに街や公園をお散歩しているイヌを見ていると、可愛くて胸がキュンとする。

 どちらも飼ったことがないので、詳しいことは分からないが、イヌはどんなに齢を取って老犬になっても自分の子どもとして可愛がれるのだろう。 

 

 それに対して、ネコの方はビミョーな距離感がありそうな気がする。

 こちらが子どもとして接していても、もう向こうはすっかり大人になってしまっていて、人間の「可愛がりたい」という気持ちに適当に合わせている、という感じさえするのだ。

 

  先日、朗読した「100万回生きたねこ」でも、ネコが大好きなのは自分であって、飼い主である王様だとか船乗り、おばあさんや子どもなんか嫌いだ、と、のたまっていた。 

 

●イヌ時代からネコ時代へ

 

   さて、この話に合わせて人間の子どもはどうかというと……

 

 人間の子どもは、オチビの頃はイヌのようにじゃれついて可愛いが、長じるとこのようにネコ化する。

 小学校低学年ぐらいまでは「イヌ時代」、

 小学校中学年から中1あたりまでは「イヌネコ混合時代」、

 それ以降、親離れして家を出て行くまでは「ネコ時代」と言えるかも知れない。

 (うちは男子=息子なのでこんな感じだが、女子=娘の場合はもっと前倒しになるかも……) 

 

 15歳になったうちの小僧もその典型で、いまは単に家についているみたいだ。

 だから、というわけでもないのだが、先日の誕生日のプゼントにネコの絵の入ったマグカップと茶碗を贈った。

 イラストに描かれたこのネコの顔は、うちの小僧そのものである。 

 

 

2011・5・20 FRI


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